茨城県八郷町に暮らす「雑木林が消えた」
橋本明子

 八郷町は三方を山に囲まれていて、町の面積の約47パーセントは森林である。町には森林組合もあって、森林の77パーセントをしめる民有林の管理をしている。山に20数本ある林道の整備や開設、間伐などが主な仕事だが、町の農林予算から補助金のでるしくみである。かっては、山持ちが町の裕福な人たちの代表であった。山を立派に保全することが、山持ちの大切な仕事でもあり、生業でもあった。質のよい山のほとんどは民有林でしめられていて、そのあいだを縫って国有林が散在した。国有林のいくばくかは民有林に払い下げられもした。払い下げは集落単位におこなわれて、その後の保全は集落ぐるみでやるところと、集落各戸に小分けされたところにわかれた。
 わたしの住む須釜集落では、裏山のふじやま(富士山と書く)が、陽当たりのよいほとんどを町でも有数の山持ちがもち、裾の貧弱な雑木林が集落各戸に分筆されていた。今、山はやっかいものと、むらの人たちはいう。戦後はたきぎや田畑の肥料に、さまざまな木工品などに重宝され活用されたのに、たきぎは石油にかわり、肥料は化学肥料や農薬にとってかわられ、手作りの習慣もすたれたいまは、雑木林は不要のものなのである。お金になる、ならないが価値の決め手となれば、雑木林の保存に気持ちはむかない。
 雑木林はわたしの家とそれに続く畑の先から肩先あがりに斜面を登り、富士山の裾に美しい一角をかたち作っていた。林のうえに昔つくられた小道が山頂にむかってゆるやかにのぼっている。わたしはこの林が大好きであった。飼い犬のタペンスの猟場でもあった。林にすみついた小鳥のねぐらや雛を追って雑木林に姿を消すと、彼女は満足このうえなく、いつまでもあそんでいて、わたしをはらはらさせたものである。
 雑木林にはじめての危機がおとずれたのは、バブル期華やかなりしころのことである。町長が土地ころがしをして、ふところを肥やすべく、富士山のなだらかな部分にゴルフ場建設をもくろんだのであった。持ち主のみなさんは、300坪ベースで常識はずれの高値で買い取られるだろうとの予想にわいたにちがいないのである。が、そばに家を建てたわたしたちはゴルフ場建設反対のグループで活動し、むらのめんめんは沈黙してわたしたちの行動をみていた。やがて町長の悪巧みは町民の前にあきらかとなり、町長選にやぶれ、ゴルフ場も沙汰やみとなった。雑木林は残った。

 田舎暮らしが都会の人たちの定年後の生き方の一つとして自覚されはじめたのは、3、4年前くらいからである。先鞭をつけた一人として、わたしたちを訪ねてくるシニアの人たちもぼつぼつあらわれるようになった。その風潮とマッチするかのように、近くを大きい道路が通ることとなり、建設工事がはじまった。東京からのアクセスには、より便利となった。それを見越したかのように、わたしたちの家の並びに数軒のもと都会びとの家が建った。周辺の土地代が値上がりしたようだとの情報も耳にはいった。
 去年の夏、日射しを避けて、山の道で犬の散歩をさせていたときのことである。シニアの夫婦とおぼしき二人連れと行き会った。二人は地図を持ち、初対面のわたしたちにこの山を買うつもりだと、突然声をかけてきたのである。「まさか!こんな急斜面ではつかいものにならないですよ」夫の返事が正直なところで、宅地にするには、斜面が急峻すぎた。が、不動産屋だったその夫婦は、その日を皮切りにしばしばあらわれ、「いまなら安くでわけられますよ」などと声をかけて来、そして暑いさかりに雑木をどんどん掘り起こし始めた。大きな穴があちこちにでき雑木はもちだされていった。聞けば、とっくに地主さんが不動産屋に山全体を売り渡していたのである。
 国有林だった裾野の雑木林が須釜集落に払い下げられたとき、各戸に分筆されたため、持ち主の意志で売買自由となったのである。ゴルフ場には売れずにしまったが、今回のミニ開発では、待望の現金を手にした地主さんは、家族に病人がいるので、と説明してまわった。こうして雑木林は秋の紅葉を待たず、あっという間に消ええさった。巣をかけていた鳥たちはどこへいったのだろう。夏すぎまで、畑のそばまできてさえずっていた鶯は無事に引っ越していっただろうか。うるさいほどだったひぐらし、むれていたおはぐろとんぼ、今年おなじようにあらわれるだろうか。もう2度ともどらない雑木林のたたずまいを、いまは哀惜をこめて思い出とするほかはない。
 八郷町要覧には、「水と緑、大切だから−−−。地球といっしょに呼吸する、そんなまちにしたい」とある。

 八郷町の面積  15378ヘクタール
 うち森林の面積 7176ヘクタール
 うち民有林   5115ヘクタール
 うち国有林   1661ヘクタール

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