倉渕村就農スケッチ・4「百姓志願」
和田 裕之、岡 佳子

 百姓は差別語であった。多くの百姓が貧しく蔑まれていた時代もあった。ごく最近まで貧しい農家のことを「水のみ百姓」と侮蔑する言葉は使われてきた。また、都会へ一旗揚げようと故郷を離れた若者が、夢破れて帰郷する際「田舎に帰って百姓でもするか」とネガティブに語られてきた。
 現在、農家の生活の内実も以前とは変わり、農業は食糧を生み出す生命の産業として認められつつもあり、私たちのように他産業からの就農希望者も増えていると聞く。
 私の所属するくらぶち草の会の先輩百姓は、土を耕し動植物を育むだけではなく、風を読み気象を予測し、荒野を切り拓き沢から水を引き、山から木を切り出し炭を焼き、小屋を建て、上下水道を設備し、溶接で鉄を組み、竹細工でかごを編み、野草薬草の名を知り、味噌や漬物など食糧を加工貯蔵するなど、おおよそ身の回りのことは何でもやってしまう。
 大工仕事では、家まで建ててしまう人もいる。百の姓(かばね)、百の仕事(職業・技術)を持つ百姓たちだ。百姓百品にふさわしく、百種以上の野菜や穀物を栽培している先輩もいて、まさに倉渕村百姓健在なのである。私はこのように目標となる先輩百姓たちに囲まれ、とても恵まれている。
 しかし、それでも世の中全体でみれば百姓をあこがれの職業と感じるのは圧倒的に少数であろう。農家は後継ぎや嫁不足に悩み、山村は過疎化を止められない。職業に貴賎はないと言いながらも、社会的に尊敬される職業は、医者や弁護士であり、就職戦線で人気があるのは相変わらず一流企業、ホワイトカラー、ビジネスマンなのではないだろうか。そしてそれが社会大勢の価値観なのである。

 学生時代を通して「価値観」「価値の基準」ということが、わたしにとって重要なテーマのひとつであった。どのようにして特定の価値観が生まれ、それが社会に定着し、人々の身体に染み付いていくのか。どうすれば現在の社会の価値観を変えることができるのか。

 ある前衛的な舞踏家が脳性マヒ者のアテト−ゼ(不随意運動)をともなう一連の動作を見て、「斬新で美しい動きだ。自分の踊りにも取り入れてみたい」と語っていた。アテト−ゼをともなう脳性マヒ者の動きは、見慣れない人から見れば確かに斬新かもしれない。私は「障害は個性だ」という言葉を好きではないが、脳性マヒ者一人ひとりの意図せざる動きや身体の線、意識的に作ることのできない表情や話す時の口の動きや独特の発語には、それぞれに固有の「そのひとらしさ」を感じる。それを「美しい」と感じる感性に私は共感を覚えるが、障害者が街に出たときに受ける視線の多くは、見慣れない動きや姿かたちに対する「奇異」の感情ではないだろうか。
 多くの障害者は養護学校や施設で成長し生活していく。障害者が健常者と接する機会が少ないということは、それ以上に健常者は障害者から隔離されているということである。多くの健常者は、積極的に障害者と接する機会を作ろうと心がけなければ、脳性マヒの人と付き合う機会にはほとんど恵まれないだろう。そしてそのような社会の中では、脳性マヒ者のアテト−ゼに「親しみ」あるいは「当たり前」といった感情を抱くのは難しい。

「働かざるもの喰うべからず」「能力に応じて働き、働きに応じて受けとる」…これらの言葉は今の世の主流であろう。主流であることに何の疑問も持たない者も多いだろう。「他人様に迷惑をかけないように」大抵の親は自分の子どもにそう言い聞かせる。だが、これらの言葉の影に潜む価値観は、障害を持つ人たちを抑圧する社会を形作る。そして、これらの言葉・価値観を暗黙の前提としている福祉には、どうしても憐れみからくるお恵み的な臭いを消すことができない。老いや障害は誰もがなりうると相互扶助を強調したところで、その社会の深部に横たわっている(差別・偏見と意識さえされない)価値観や人々の感性が変わらないかぎり、福祉(幸福)という言葉は本来の意味と鮮度を失い、その内実は裏切られるだろう。
 そして、そのような社会では、仕事や理解の遅い者、不器用な者、障害を持つ者たちは相変わらず否定され虐げられ続ける。(表立った差別や露骨ないやがらせなどは減っているのかもしれないが)

 私が20歳の頃からやりたかったことは今も変わっていない。それは「福祉」や「農業」などの枠にははまらないものだった。私自身の仕事や生活、感性や価値観を解きほぐしながら、触発的に仲間の輪を広げて行くこと。自分にできることで、自分が心からやりたいと感じること。それを私は百姓という生き方のなかに見出した。
 宮沢賢治がこんなことを言っている。

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういう人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於いて論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である

まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう


(宮沢賢治著『農民芸術概論』より) 
※引用文献『宮沢賢治全集 10』ちくま文庫

                                                    (和田裕之)

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