食べもののあり方(第二版)

牧下圭貴



【第二版 まえがき】

「食の安全性」や「食育」が政治課題になるような現代は、どこかおかしいのではないかと思います。「食の安全」や「食のあり方」は、きわめて個人的な行為であるとともに、その人が暮らす地域や社会、歴史、自然によって決まることでもあります。
 それをわざわざ誰かに「決められ」「言われ」なければならないのは、どこか変です。
 では、どこがおかしいのか? ずっとそのことを考えていました。
 昨年芸術選奨に選ばれた結城登美雄氏が、沖縄のおじい、おばあを調査したときの話を聞きました。
 みな、必ず自分の屋敷畑を持っていて、それを一番大切なものとして挙げている。基本的に食べものは自分で作るか、隣同士、集落の中で譲り合って得ている。他者に「食べもの」を依存しておきながら「おいしくない」とか、「安全ではない」とかいうことは「みっともない」ことではないか?
 そんな話がありました。
 今の多くの日本人は、他者に命を依存して生きています。どこから来たのか、誰がつくったのか分からないものを食べて生きています。そして、「安全性」に不安を持ち、「どこか間違っているのではないか」という不安やうしろめたさを持ちながら、生きています。
 これは「みっともない」ことで、この「みっともなさ」を解消する必要があるのかも知れません。
 政府は、輸入に依存している日本では、万が一輸入がストップしたら、きわめて厳しい状況になることを訴え、食料自給率の向上を政策課題に上げますが、その一方で、カロリー自給率とともに、金額ベースの自給率を指標にすることであたかも自給率が上がったかのような見せ方をしています。
 これもまた「みっともない」ことかも知れません。
 アメリカに言われて牛肉の輸入再開を急ぐあまり、専門家が「よくやった」と言う全頭検査態勢を崩そうとしています。日本は強く言えないからです。
 世界中から食品を輸入しつつ、形の不揃いなもの、見た目の悪いものは容赦なく受け取らず、ちょっとブームになると一網打尽に輸入しておきながら、ブームが過ぎると輸入を止めてしまいます。そのことが、輸出国の生産者や自然環境をどれほど苦しめ、痛めつけているかを考えもしません。
 ああ、これも「みっともない」ことです。
 どうやったら、この「みっともなさ」を解消できるのでしょうか。
 そのための考え方をまとめてみます。
 第一版では、短く考えを整理することに徹しましたが、第二版ではあらためて考えを整理するため、長文となりました。

【第一章】 食べもののあたりまえすぎる大原則

 人間がなにかを食べるということは、まずは、命を維持するためです。エネルギーとしての食べものです。
 次に、身体を維持したり、成長するために必要です。物質としての食べものです。
 さらに、次世代のために必要です。一番わかりやすいのが、女性の妊娠と出産後の授乳です。
 だから、食べものには大きくふたつの原則があります。それはとてもあたりまえのことですがもっとも大切なことです。
【原則】
・一年、一生を通して食べものが手にはいること
・食べて死なない、健康をそこねないこと


1)一年、一生を通して手にはいること
 食べるものが1週間でもなくなると大変なことになります。1カ月手に入らなければ死ぬ人もたくさん出てくるでしょう。今食べものがなくて、3カ月後になれば届けられると言われても、その人には何の救いにもなりません。
 食べものは、一年を通して必ず手にはいること、そして、一生を通して手に入れられることが必要です。
 人間は、この解決として農業と食の保存技術を生み出しました。そして、たくさん生産でき、栄養豊富で保存ができるものを主な食べものに選んできました。
 日本では「お米」がそれにあたります。収穫は年に1回ですが、栄養豊富で、保存できます。これを主食としています。かつては、雑穀、芋類なども主食の位置にありましたが、「お米」の生産性が上がり、生産量が増えるとともに「お米」が主食の位置に定着しました。
 食料自給率が低いということは、いざというときに手元に食料がない可能性が高いということです。せめて7割ぐらいまでは自給しておかなければ、世界的な社会変動や異常気象があったときに、飢餓が起こる可能性もあります。

2)食べて死なない、健康をそこねないこと
 これもあたりまえのことです。食べると死んだり、食べて健康に悪いものは食べものではありません。重金属やカビ毒のような直接的に生命や健康に関わるものもありますが、食品添加物入りの加工食品や残留農薬のある野菜など、すぐには影響が出なくても、長期的に健康を害する可能性のあるものを忘れるわけにはいきません。
 現在の自然環境は、水も空気も土も、以前とは違ってわずかであっても人工の毒物に汚染されています。農薬、重金属、ダイオキシンなど、人間が作り出した毒物です。
 毒物を排出しない、作らないのがもっとも必要なとりくみです。そして、今のところは、「より毒が少なく、それを作ることで毒を生み出さないものを食べる」ことしかありません。
 つまり、絶対安全なものを得ようと思えば、空気も水も土も浄化した完全な密室(工場)で食べものを作るしかないのですが、そうすると、電気などのエネルギーを大量に使い、結果的に周りを汚染することになりかねません。今は「相対的に安全で、環境負荷が少ないものを食べる」ことが求められていると考えます。


【第二章】 食べものの作り手がちがうと同じものの意味がちがってくる

 食べものを作るといっても、いろいろな段階があります。採取や栽培など農業や漁業にあたる段階もあれば、パンの製造や料理などの加工、調理の段階もあります。
 しかし、どんな段階でも、作り手を大きくふたつに分けて考えることができます。
 そして、このふたつの違いが、食べものの質の違いを生み出します。
 作り手のひとつは、自分、家族、知っている人、または小さな地域集団です。これを「小さな作り手」と命名します。
 もうひとつは、大きな組織(企業)や、その組み合わせ(システム)です。これを「大きな作り手」と命名します。
「小さな作り手」「大きな作り手」のどちらであっても、農産物や水産物を生産したり、味噌や漬物などの加工品をつくったり、フライドポテトやカレールーを作ることはできます。しかし、このふたつの作り手には大きな違いがあります。

1)大きな作り手(グローバルシステム)
「大きな作り手」の特徴は、なんでもできるということです。世界中どこからでも、どんなものでも生産し、流通し、加工することができます。
 たとえば、遺伝子組み換えのトウモロコシを多国籍企業が開発し、その種と農薬を販売、アメリカで大規模に栽培します。トウモロコシを台湾に運び、鶏のエサにして鶏を育て、そのモモ肉だけを日本に運び、スーパーに並べることができます。オランダから、豚のロース肉だけを運んできて、元のロース肉の重量より重い不思議なハムをつくることだってできます。レトルトのハムや冷凍ハンバーグをつくります。
 エビが売れるとなったら、世界中の海の底をさらってエビを取り尽くし、エビ漁が禁止されたら、マングローブ林を切り開いてエビ養殖場を作り、狭い面積で最大の生産量になるようエサを入れ、合成抗菌剤や抗生物質を入れて育てます。それでも病気が広がったら、別の国のマングローブ林を切り開き、新たな養殖場をつくるだけです。
 これは、「小さな作り手」にはできません。大量生産と大量消費、そして世界的な流通システムが「大きな作り手」の武器です。だから「大きな作り手」は、グローバルシステムとも言えます。
「大きな作り手」はその力をもって、自然環境を改変し、人々の食生活を変化させてきました。人々の食生活を変化させる力は、「価格」「情報=宣伝」「簡便化」によるものです。
 今の食品の「安さ」のほとんどは、このような「大きな作り手」によるものです。「大きな作り手」は、牛肉やエビ、バナナやマンゴーなどを安く、手軽に食べられるようにしてくれました。その一方で、「大きな作り手」によって、それまであたりまえだった「小さな作り手」のしくみが壊されていきました。




2)小さな作り手
「小さな作り手」は、結果的に自然環境と共存して持続する作り手です。「小さな作り手」は、その土地で手に入れられるものを基本に食べものの大前提を満たそうとします。
 生産の基盤は、「小さな作り手」の土地しかありません。自然環境とほどほどに折り合いをつけながら、山や里、田畑、海や川から栽培や採取を行う以外に方法がないため、自然環境が回復不可能なまで改変させたり、破壊したり、取り尽くすことが許されません。破壊すれば、生産手段を失い、食べものが得られなくなるからです。
 そのなかで、味噌や干物、漬物のように伝統的な保存や加工の技術を生みだし、調理の工夫によって、できるかぎりおいしく、栄養が十分になるようにしてきました。
 それが、生活文化であり、食文化、食習慣になりました。
 しかし、「小さな作り手」だけでは、必要な食べものを満たせない場合もあります。
 その場合、足りないものをどこかから調達しなければなりません。
 その相手も「小さな作り手」でした。相手が「大きな作り手」だと何でも手に入りますが、相手が「小さな作り手」だと相手の場所で作ることができるものしか受け取ることができません。「小さな作り手」同士のつながりは、経済だけでなく、人間や文化のつながりとなっています。
「小さな作り手」による食べものは、今の「大きな作り手」向きに作られた市場経済にはあまり向きません。自然環境と共存するための手間という「お金にできないところ」があるためです。
「小さな作り手」にとって、「小さな食べ手」である自分や家族、知っている人、地域の集団に食べものを提供するときには、今の市場経済を考えなくてもいいため、問題はありませんが、「大きな食べ手」や「不特定多数の人」に売ろうとすると、突然今の市場経済とつきあうことになります。
 単純に「手間」を市場経済にあてはめて「小さな作り手」のものを売買しようとすると、極端に高くなったりします。「小さな作り手」は、今の市場経済とのつきあい方に困っています。
 しかし、「小さな作り手」は、持続可能な社会や自然環境とのつきあい方、食文化や生活文化などの大切な担い手です。


【第三章】 食べたら死ぬこともあるがそれは誰のせいなのか?

 食塩を大量に食べたら、死にます。長期にわたって多めに食塩をとり続けたら、高血圧などの原因になります。毒きのこを食べたり、フグの内臓を食べたら、死ぬことがあります。じゃが芋の芽を食べたら、お腹を壊します。大量にじゃが芋の芽を食べたら、死にます。これらは、自然の「毒」です。しかし、これらが「食品の安全性」で大問題になることはあまりありません。
 工場排水によるメチル水銀に汚染された魚を食べ続けた結果が、水俣病です。たくさんの人が死に、メチル水銀中毒の症状に一生苦しんでいます。
 森永ヒ素ミルク中毒、カネミ油症(PCB)などの大規模な死亡事件もありました。
 食品添加物、残留農薬、残留薬物(抗生物質、合成抗菌剤)、ポストハーベスト農薬、BSE汚染牛肉、ダイオキシン類の生物蓄積など、すぐには死ななくても、長期的には健康を害するものが「食品の安全性」で問題にされています。
 そこで、それを逆手にとって、「消費者は、フグの毒ならば取り去って食べているのに、狂牛病ならばすべて焼却しているという不合理な反応を求める」とか、「塩もたくさんとりすぎれば毒だ」「大豆だって環境ホルモン作用物質が含まれているではないか」といった、「大きな作り手」側からの発言が出てきます。
 そして、リスク&ベネフィットという考え方が取り入れられました。新しい技術などを導入する際に、危険性と利益を比べて「利益」のためにどこまで危険性を受け入れられるかを判断しようという考え方です。これを食べものの分野にも取り入れて科学的に判断すべきだという人たちがいます。一方、食べもののように生命や自然環境に直接関わるものについては、予防原則に立つべきだという考え方があります。危険性が分からないならば使わないという立場です。
 食べものについては予防原則をとるべきだと思います。さらに、リスク&ベネフィットについては、自然が作り出してきた、昔からある毒(危険性)と、人間が生み出した新しい毒(危険性)に分けて評価したいと思います。

1)自然の中で生物が自分を守るためにつくりだしてきた毒
 フグ毒や、大豆の環境ホルモン作用、ジャガイモの芽、カビ毒などです。
 人間は長い時間と世代を通して、食べられるもの、食べられないもの、処理をすれば食べられるものという知識や技術を持ち、それを食文化として作り上げてきました。毒のないものを食べ、毒のあるものは取り除き、毒があってもおいしかったり栄養があるために毒とうまくつきあってきたり、危険を承知で食べてきました。
 毎年フグ毒で死ぬ人がいます。それでも、フグを食べる人は減りません。でも、一般的にふぐを小さな子どもには食べさせません。刺身もアニサキスなどの危険性はありますが、それは承知の上で、食べ続けています。
 大豆の環境ホルモン作用は最近になって知られてきましたが、その女性ホルモン作用が危険性と同時に健康にも役立っています。天然の発ガン物質であるウコン(ターメリック)は、一方で胃薬であり、カレーの基本スパイスとして欠かせません。
 自然の毒については、危険性(リスク)も食べることによる利益(ベネフィット)も「食べる人」の問題です。正しい知識と経験をもって自分で判断することができる領域です。

2)「大きな作り手」が自分の利益のためにつくりだしてきた異物・毒
 一方、人工の化学物質や遺伝子組み換え、狂牛病のようなものは、「大きな作り手」(グローバルシステム)などが、工場や大規模流通といったしくみを作った結果生まれたもので、その目的は、個々人の健康や栄養ではなく、「大きな作り手」の利益(ベネフィット)が先にあります。食べることでの危険性(リスク)は食べる人のもとにあります。「大きな作り手」が利益を得て、危険性は個人。これは不釣り合いです。
 だから、これをリスク&ベネフィットで考えるのはおかしいです。
 危険を受けるものと、利益を受けるものが異なることが多くのだから、予防原則をとったほうがよいのです。
 食品添加物、農薬などの化学物質の使用、新しい科学技術である遺伝子組み換えやクローン技術の導入、あるいは、大量生産のために本来の状態とはかけ離れた生産方法、たとえば、草食反すう動物の牛に大量の穀物飼料を食べさせたり、さらには動物飼料(肉骨粉や魚粉)を食べさせ、運動を抑えるようなことを行うことについては、慎重に考える必要があります。作物や家畜、人体、自然環境への影響について長い時間をかけて研究し、同時に、社会的、倫理的、宗教的にその技術の導入は受け入れられるのかコンセンサス(合意)を得られるかどうかの判断が必要です。
 それらを行わず、単に「できるから」「経済的合理性がある=儲かるから」と導入し、その結果大きな問題を引き起こしてきたのがこれまでの歴史です。
 中には、遺伝子組み換えは来るべき食料不足の救世主だから利益は人々にあるという反論もあります。しかし、今でさえ、絶対的に食料は足りているはずなのに、飢餓・貧困は起こっています。現在の飢餓・貧困は食料不足が原因ではなく、食料を得る手段を奪われた結果です。だれが食料を得る手段を奪ったのか。それが「大きな作り手」(グローバルシステム)です。論理のすりかえでしかありません。
「小さな作り手」が思いもつかない生産方法を「大きな作り手」が生みだし、その生産方法に含まれる「危険性」について、食べ手である私たちに彼らの「利益」の引き換えとして押しつけます。食べ手に対しては、大量生産で「安く」なるからとの甘い言葉で、「安さ」を「危険性」に勝る「利益」だと言いますが、それは大きな嘘です。




【第四章】 食べ手にこそ求められることは多いのではないだろうか

「大きな作り手」によって、安く、均一で、「安心、安全そうに見える」食品がスーパーマーケットやコンビニエンスストアに並び、安く、均一で、「安心安全そうに見える」料理がファミリーレストランやファストフードに並び、食べ手はそれを選ぶことに慣れてしまいました。
 そういう生活があたりまえになった現代に、食べ手は、「安全」や「安心」をあたりまえのように求めています。マスメディアも、何かひとつの企業が事件を起こすたびに、そのことを集中して取り上げ、あたかも突然、たとえば病原性大腸菌O157ではすべての「カイワレ大根」が危険になり、雪印牛乳事件ではすべての牛乳・乳製品が危険になり、BSEではすべての牛肉が危険になり、鶏インフルエンザではすべての鶏・卵が危険になるかのような報道を行い、食べ手は、一気にそれらへの消費意欲を失うという事態が起きています。
 食べ手は、食べものを、会ったこともない「知らない作り手」にまかせておきながら、自由奔放に何を食べるかを選び、自分の都合で食べたり食べなかったりしています。
 その結果、食べることを通じて生まれるはずの「食べ手」と「作り手」の関係や、「作り手」を通した自然環境や地域社会との関係が生まれないばかりか、自然環境や地域社会をこわし、「小さな作り手」を追い込んでいます。
 たとえば、水田が広がる風景は日本の「ふるさと」的風景であり、自然のダムであるから、田んぼのある風景を守ろう、棚田を守ろうという運動があります。これは非常にすてきなことだと思いますが、そもそも田んぼが失われてきたのは、日本人がお米を食べなくなったからです。1966年から、2004年までに米の消費量はひとりあたりにして半分まで落ち込みました。その結果、おおよそ半分の水田で生産される米が不要になったわけです。「食べ手」の米を食べないという選択が、日本の風景、自然環境、生活、「小さな作り手」のあり方まで変えてしまいました。
「食べ手」である私たちは、「作り手」に要求するだけでなく、「食べ手」として必要な知識や考え方、経験を持つ必要があるのではないでしょうか。そうでなければ、結局は、「食べ手」が知識や自らの考え、経験をもつ必要のない「大きな作り手」による食べ
ものを選ばされることになるのではないでしょうか。それは、「小さな作り手」にとっても、すべての「食べ手」にとっても不幸なことだと思います。

1)「小さな作り手」に近づこう
「大きな作る手」は、安さと見た目のきれいさ、味の均一さ、無機質な安心感をもたらしてくれますが、その本質には、「大きな作り手」の利益優先思想があり、自然環境も、食べ手も、そのための資本や市場でしかありません。
 食べものは、自然環境やその人の考え方、身体の都合(体調や体質)、地域社会のあり方と密接にかかわるものです。「小さな作り手」は、作り手であり食べ手である自分自身や家族、あるいは、地域社会や、背景にある自然環境とつながりながら、食べものを生産し、加工し、調理するものです。
 ひとりひとりが、「小さな作り手」をめざし、「小さな作り手」に近い食べものを選択することで、食べものを通したつながりと豊かさを持つことができます。

・地産地消
 できるだけ近いところで作られたものを食べる、という意味です。食は地域の環境とも深く関わります。自分が住んでいる地域に近ければ近いほど、新鮮で、旬のある、安心できる食を得ることができます。そして、地域の自然環境を守ることが、自分の食を守ることに直結します。もっとも望ましい食のあり方です。

・顔の見える関係
 地産地消でなくても、食の作り手を知り、食べる人を知ることは、大切なことです。友達同士ならば、ウソやごまかし、あるいは自分では食べないような作り方(農薬多用や添加物多用)のものを渡すことはありません。
 誰が、どこで、どんな気持ちで、どのように食べものを作っているのか、誰が、どこで、どんな気持ちで食べているのか、お互いに直接的に知ることは、信頼関係を作ることです。それこそが、食の安心の基本になります。

・自分でできること、人に頼むこと
 野菜や米を栽培する。魚を捕る。鶏や豚を育てる。魚や鶏や豚をさばく、加工して保存する、料理する。そういう知識や技能は生きるための基本です。今、学校ではほとんど教えない「小さな作り手」の知識や技術ですが、これこそ必要不可欠です。たとえ調理や食品加工や食料生産を仕事にしなくても、知識や技術を持っていれば、本物の食べものを見分けることができます。価値がわかります。
 その上で、現代の分業化された暮らしの中で、生活環境や人生のステージごとに加工食品や外食をうまく使いこなせばいいのではないでしょか。加工食品や外食は、多様な生活の中で必要な存在です。ただ、もし基本となる知識を持たなかったら「大きな作り手」に支配され、見た目は変わらなかったりきれいで豪華でも、質は貧困な食事になり、人間として、生命として生きる意味を半減させてしまいかねません。

2)五感をみがく
 人間には、五感というセンサーがあります。
 みる(目)、きく(耳)、かぐ(鼻)、さわる(肌・指)、なめる(舌)、です。
 本来、食べものを選ぶとき、人間は、この五感と自分の知識・経験、自分の体調などを合わせて「食べられる」「食べられない」を判断していました。
 今は、食品のパッケージをみて、その原料表示や消費期限で判断しています。とりわけ判断材料にされているのが「期限表示」のようです。
 納豆の「消費期限」が1日でも過ぎたら捨ててしまう。未開封の冷蔵保存された牛乳でも「消費期限」を過ぎたら捨ててしまう。卵も生食目安期限の表示日を過ぎたら捨ててしまう。料理して食べ残したものはそのまま生ごみになり、翌日まで冷蔵庫で保存しようとは思わない。
「作り手」に不信をもって「安全」「安心」を要求する「食べ手」なのに、五感と知識・経験を活かして判断をしようとはせず、「作り手」の「表示」をそのまま信じ込んでいます。
 病原性大腸菌O157が「流行した」年には、それまで手作りで子どもにおやつを与えていたのに、自分の調理では不安だから、ちゃんとパッケージされた食品を「買って」子どもに与えていたという人がいました。
 会ったこともない「作り手」なのに、「表示」があるからと「信じて」しまい、その「表示」に従ってしか「食べもの」を選んだり判断できないと、結果的には「大きな作り手」のものしか選べなくなってしまうのではないでしょうか?
 また、食べることは、身体の調子や精神のありようにも影響します。食べた結果、身体に力が満ちあふれたようになり、頭がすっきりと冴え、元気になることもあれば、食べた結果、もたれたような疲れたような感じになり、頭がぼんやりし、気分が沈むこともあります。食べものは、日々の生活にさえ影響を与えるものです。
 まず、食べもの(食材や料理)を、五感で判断し、食べた結果の身体の調子や心の調子を確かめ、食べた結果生み出すもの(うんこ)を見て、判断し、食べものと身体・精神、生活がつながっていることを自覚していくことも必要ではないでしょうか。

3)節度のある食
 狂牛病の背景に、安い牛肉を食べたいという欲があったことでしょう。遺伝子組み換えで安い大豆が欲しい、安い牛丼、安い牛肉、安い米、安い食費…。牛肉をそんなに毎日のように食べなくてもよいのではないでしょうか。たまに食べるから、おいしく、ありがたく、食べられるのではないでしょうか。
 長い時間をかけて自然と調和しながら水田稲作を広げ、お米を主食としてきたように、自然環境と調和した食文化があるはずです。
 それは、「節度」のある食でした。
 そういう節度を、このグローバル化した社会の中でも、地域ごとに新しい食文化として生み出す必要があるのではないでしょうか。
 そして、節度のある食こそ、人口増加、地球環境の悪化の中で、よその国の自然や人々の食を搾取しない、あるものをできるだけ公平に分配する新しい価値観です。
 スローフード運動、身土不二やフードマイルのような価値観のように、新しい食文化を生み出す動きが世界的に広がりつつあります。
 そこに、希望があると思います。

4)ほどほどに
 そうは言っても、現代日本社会。世界中の食材や料理がひしめき、しかも、「大きな作り手」はそれらを「安く」提供しています。一方、「小さな作り手」のものを購入しようと思っても、「小さな作り手」も「食べ手」も、現代の市場経済の中に生きており、食べものだけでなく、生活のすべてを市場経済で同じ価値基準(お金)に換算されているため、「小さな作り手」のものは「高く」なってしまいます。
 自給自足や、「小さな作り手」=「食べ手」の関係で生活ができる小さな自給的地域社会を除いては、なかなか理想の食べものの暮らしを続けることは困難です。
 人間は一生食べ続けなければなりません。個人の経済破綻を起こすような食べ方では、理想に近づくとは思えません。
 それに、理屈だけで「無理して」まで理想の食べものにこだわると、食べるのも「辛く」なってしまいます。
 食べるということは、本来とても楽しく、心躍り、うれしく、喜ばしい行為です。
 心に余裕を持ちながら、少しずつ、できるところから理想的な食べもののあり方に近づければいいと思います。







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