茨城県八郷町に暮らす
「新しい一冊」


橋本明子



山形県高畠町で有機農業にいそしんできた片平イチ子さんを癌で失ったのは、足かけ3年前のことである。彼女は52才、夫の潤一さんと二人三脚をがっちりくみ、2町歩をこえる有機田、おなじく2町歩に近い有機畑、いくばくかの豚とその豚肉を加工するハム、ソーセージ作りと、全力投球のまっただ中での死であった。
 イチ子さんの癌再発と知ったときのわたしの無念さ、30年近い年月を、同じ方向をむいて歩んでいるという仲間意識からくる安心感と、彼女の年齢の若さに、どこかでわたしは甘えていて、わたしより先に亡くなるとは、想像の外であった。イチ子さんとのおつき合いも、片平家プラス横浜こだま舎という、スクラムを組んでの提携があったので、わたしはその次と、控えめをこころがけていた。
 一家の主婦、妻、母親、嫁、のベースのうえに、有機農業の担い手、豚肉加工の責任者、一家と農業経営の会計主任、こだま舎への出荷責任者と消費者向けのニュースやおたよりの執筆者といったさまざまな顔がイチ子さんにあったのは事実だが、彼女が最後の入院となったとき、イチ子さんとわたしだけのつながりも別にあったはずだと、わたしはやっと気がついた。
 イチ子さんのことを書いて残したい、彼女が山形で、わたしたち消費者は都会で、お互いが一生懸命にやってきたこととはなにだったのか、を、もう一度考え直したい、そんな気持ち でいたところへ、横浜こだま舎を長年主宰してきた山崎夫妻のひとり、久民さんからきりだされた「いっしょに本をつくらないか」との誘いに、水戸の海老沢とも子さんとわたしがのって、このほど一冊の本にまとめあげた。「イチ子の遺言」がその題名である。
 3人の女性が、1話づつを分担して書き、全部で3話を構成する。ふつうなら各人が書いた原稿を持ち寄って一冊にまとめ上げるのだが、わたしたちはそうするまでに、膨大な時間を費やした。話を切り出した山崎さんだが、それはイチ子さんのお葬式が終わったあとの集まりの席上であった。
 イチ子さんとつきあいのあった大勢の女性のうち、なぜ、山崎さんが海老沢さんとわたしに声をかけたのだろうと、あとになってふと思うことはあったが、その時は、他のことはなにも考えられず、ただ悔しい、悲しいの思いでいっぱいだったので、いちもにもなく引き受けた。
 東京へ戻って3人顔をあわせたとき、話はやはり思い出に戻っていって、原稿の話はなかなかすすまなかった。が3人のほかに実はもう一人の女性が最初から同席していた。出版社の編集者で、上野さんという。彼女はわたしたちの体験とは無縁である。3人がかっての話に熱中すると、上野さんは「どうして3人とも話しているうちに、じわっと涙ぐむの?」と不審がり、涙の中身を書いてもらわなくちゃね。と3人に念押しをした。
 こうして3人の仕事はスタートしたが、始めに事実確認をする必要がある、ということで、残された夫の片平潤一さん、同じ菜菜穂仔グループの舟山伸二さん、鈴木久二郎さんが上京の機会に、聞き取りをした。潤一さんには、なにをかいても良いとの言葉をもらい、イチ子さんの残したメモや、絵なども参考にと提出してもらった。山崎さんが、イチ子さんが消費者向けに書き送ったニュースをまとめてコピーした。膨大な量になった。
 イチ子さんの死にかかわることを海老沢さん、彼女の活躍した時代背景を橋本、潤一・イチ子夫妻との提携と問題点を山崎さんと、おおまかに決めて、めいめいが下書きをはじめた。原稿は各自が持ち寄り、お互いに チェックし、だぶりや過不足を指摘しあった。上野さんのアドバイスは、第三者の立場からの的確な指摘だった。わたしたちは、なるほど、自分たちでは自明のことがらも、読者にはていねいな説明が必要なのだと、わかっているつもりが、あらためて気が つくことも多かった。
 4人の集まる場所は、やがて石岡に落ち着いた。めいめいの住まいからできるだけ等距離のところという配慮である。海老沢さんが、長時間無料で使ってもいい場所をみつけてくれた。ありがたかった。わたしたちは、持ち寄った原稿に心ゆくまで、手をいれることができた。
 が、かんじんの原稿はなかなかおもうようには進まない。海老沢さんと山崎さんは、あらためて高畠へ出かけていった。わたしも自分なりに資料をさがしたが、30年前となると、欠けてしまったものも多く、関わった人にきいても記憶になかったりして、積み重なった年月の重さを、いまさらながら知らされた。
 わたしたちは発行しなくてはならない日取りを逆算した。今は菜菜穂仔グループという名を持つ片平潤一・イチ子さん中心の生産者群が年1回の収穫祭を祝う日には、ぜひ持ち寄りたいと思った。収穫祭は東京で行われ、つきあう消費者グループも、こぞって参加する。急ごうとなった。
 泊まりがけの原稿チェックというプランをたて、国民宿舎を予約した。土浦と八郷での1泊は、原稿もすすんだし、4人が親しくもなれたし、その地にもなじみができた。題名には、ぜひ「イチ子」をいれたいと山崎さんが提案した。本の装丁は、ながらく古布とつきあってきた海老沢さんが何点かを持ち寄り、そのなかの二つを組み合わせることとした。
 ようやく本のかたちが整い、製本にまわせたのは暮れも押し詰まってのことである。上野さんの奔走で、「イチ子の遺言」は、予定した1月20日完成した。
 わたしは第2話を担当している。イチ子さんたちの歴史であるとともに、わたしの歴史でもある。それもわたし個人ではなく、いっしょにやった大勢の仲間たちの記録でもある。たんに過去の記録ではなく、将来への提案にもしたいと願った。
 わたしばかりではない、海老沢さんも、山崎さんも、それぞれが担当して、問題点を提起した。癌という病気の問題、どう立ち向かうかという患者や家族の問題、医療機関への注文。有機農業における女性の立場を強調したのは山崎さん。また、菜菜穂仔農場と農業経営の問題、環境として保全したい中山間地の問題、都市と農村の問題、有機農業における提携の中身の問題などなど。イチ子さんが願った生き生きとした有機農業の世界を引き継ぎ、将来に構築していくための、この本は「遺言」ではない、提案であるとわたしは考えている。そのためにも、ぜひ読んでほしい。

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