倉渕村就農スケッチ・「欲とふたりで」

和田 裕之、岡 佳子



 上州ではよく働く事を「せっこうがいい」という。就農1年目、隣の畑のおじさんに「せっこうがいいね」といわれて、どういう意味かわからず「格好がいい? 作業着をほめられているのかな?」なんて首をひねっていた。後になって「よく働くね」と言われているとわかり、「はぁ」と曖昧な返事をしていた自分が気恥ずかしくなった。就農したばかりで百姓は朝早くから働くのがあたり前だと思っていたので自分では特別に働いているなんて意識はなかった。今では夏の農繁期以外は朝ゆっくりしていたりもするのだが。
「よく働くね」なんて勤勉は美徳だからほめられているのだけれど、言われてみるとかなり気恥ずかしい。こんな時は「欲とふたりで働いているから」などといって切り返すのがいいかもしれない。働く自分を謙遜して、また、働き過ぎることに自戒を込めて語ってみる。
 私の知っている百姓たちは皆よく働く。働かなくてはいられない性分なのか、収穫・収入が不安定だから働ける時に精一杯働いているのか。まあ、私たちも出荷量が多い時や雨の日の収穫作業時に「がんばるね」とか「せっこういいね」とか言われる事があるので、他人の目にはよく働いているように見えるものなのかもしれない。

 老子の道徳経の一説に「知足」という言葉がある。読んで字のとおり「足るを知る」という意味だ。足るを知り悟りを得た仙人であれば、百姓仕事もこれほどは忙しくはあるまい。あれこれと何種類もの野菜の種を多めにまき、実ればもったいないからなんとか全部出荷できないものか、お金にならないものかと奔走する。だから私たちは忙しさから逃れられない。私は、悟りへの道TAOにあこがれつつも、様々な欲望から自由になる事が出来ない。たまには外食をして身体に悪いおいしい料理もたべてみたい。お金を使って旅行にも行ってみたい。情報が欲しい。インターネット、パソコンも必要だ。テレビも観たい。映画も観たい。音楽だって聴きたい。子どもの喜ぶ顔が見たいのでおもちゃも買ってやる。高校へ行くようになると授業料より交通費の方が高く付くらしい。東京の大学へ行きたいなんて言い出したらいったいいくらお金が必要になるだろう。
 自給自足・知足が私の理想だが、今の日本で子どもを育てていく事を考えると自然医療や家庭内教育には限界があるので、ある程度の現金収入や蓄えの必要は感じている(もちろん、物々交換や地域通貨などを奨励・実行・普及し、現在の世界経済に対しささやかな本当にささやかな抵抗は続けたい)。ただし、現金の必要は医療費や教育費だけとは限らない。様々な情報は私たちの欲望を喚起し消費を煽る。なくても生活には困らないもの、風力発電機やDVD、新型の掃除機なんかが欲しくなったりしてしまう。消費の拡大は経済成長でよいことなのだそうだ。果たして本当にそうなのか? 商品が開発され貴重な地下資源石油等が使われて、ゴミが増えて環境
が汚染されて……という側面はいつも別の問題として棚上げされる。農業の世界でも、設備投資をして営農規模を拡大し農業収入・経営の安定化を図れなんて、しきりに主張する人もいるけれど、金利が安いからと融資を受けて大規模な設備投資をして経営は予想通りには行かず返済に追われ結局離農することになったなんて話を聞いたりもする。

 有機JASの認定を取る際に、ポリマルチや一般の(種子消毒済の)種子の使用に関して、「原則禁止。ただしやむを得ない事情・理由のある場合には使用を認める」みたいなのがある。「やむを得ない事情」って何だ? と生産者自身も思うのだけれど、それぞれのやむを得ない事情なんて当然200字や400字程度では書ききれない、否、言葉や文章では表現しきれない。もちろん模範解答は用意されているのだけれど何だかばかばかしくって模範通り書く気にはなれない。いっそのこと駄目なものはダメで全面禁止にしてもらった方がすっきりするのだが。
 ポリマルチは、栽培している野菜周辺の雑草の繁茂を防ぐとともに、地温を上げたり土壌の水分を保ったりする。雑草の抑制や水分の保持は稲わらなどの植物性のマルチで代替が可能(ただし大量の稲わらと労働力が必要)だが、地温の上昇・維持に関してはこれに代わるものが見当たらない。標高700mのわが家の畑で春先と秋の終わりに地温が維持できないと多くの作物の収量が激減する。もともとポリマルチなしで栽培しているのは、米麦雑穀、ハーブ類、じゃがいも、春菊、小松菜、ほうれん草、カブ、長葱(わが家の場合、葱はよく草に負けてしまう)くらいでその他の作物はポリマルチか生分解性マルチを利用している。それでもポリマルチを使わずに何とかできないものかと昨年の秋から少しずつ試している。大根は少し小さめで成長も遅く晩秋に凍りつくのも早いけれどなんとかやれそうな目処はたった(収量が落ちるのは覚悟で)。ター菜なども寒さに強いのでいけそうな気がする。来年はチンゲン菜、くらかけ豆、大豆などのポリマルチなし栽培も試してみたい。
 種子は普通に買うと大抵のものは種子消毒が既にされてしまっている。種子消毒のないものを手に入れるのは簡単ではない。そもそも農家の欲しい品種の種自体が限られている。味のいい品種、成りのいい品種、成長の早い品種、病気に強い品種、見た目やそろいのいい品種などなど、野菜の種ならなんでもいいと云うわけではない。自家採取で種も自給できれば一番いいのだが、在来種や固定種(種取りできる品種)で農家・流通販売者・消費者の望む種がなかなか見当たらない。また、種取り自体が現在の農家の仕事に組み込むことが難しい。同じ科の他の品種(例えば大根と小松菜とか)と交配しないように気を配ったり、葉物や大根、人参など花が咲く前に収穫してしまう作物は通常よりも長い期間世話をする事になる。品種の特性保持や経済的なことを考えると種取りは専門の方にお任せしてしまいたくなる。
 わが家で種取りできているのは、米麦雑穀、かぼちゃ、ヤ−コン、花インゲン、じゃがいもと里芋、ハーブ類の一部、小豆と大豆は2年に一度。今年は新たにインゲン、ズッキーニ、茄子、らっきょう、エシャロット、辛味大根の種を取ってみた。インゲン、ズッキーニ、茄子はF1の種なので品種の特性が固定するのに何年かかかるだろう。種の特性が落ち着くまでは必ずしも販売に適した野菜が実るとは限らない。それを我慢しつつ継続して種をつないでいくというのも種取りの難しいところだ。

 作物の味や栄養価、安全性、収穫・出荷量、安定性(安定供給)、荷姿(野菜の見た目)、流通販売者や消費者の嗜好、営農の経済性、周囲の環境や生態系などのすべてを考慮しつつ、農を生業として成立させているのが農家・農民だ。「収量」ひとつを捨てれば有機栽培の理想はぐっと近づくにちがいない。しかし、実際には、収量ひとつをも私は捨てる事が出来ない。自分の有機的な道への理想と現実的な作物の収量との境界線をどのあたりに引くのか。このことを常に自分自身に問いかけながら、今ある自分の状況・条件・能力の中で私自身なんとかかんとかやっていくということでしかない。
 欲が勝れば収量を増やしたくなる。欲望に満ちた現代消費社会のただなかで、私たちは自分自身を欲望に支配される危険を常にはらんでいる。それでも志を強く持って欲に負けないように努めたい。禁欲的に欲望の一切を否定してしまうのではなく肯定するのでもなく、自分の内なる欲望を冷静に見つめ戯れる。そのように私は「欲とふたりで」生きて行こう。



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