茨城県八郷町に暮らす
「もうひとつの第二次世界大戦」


橋本明子





 12月8日は、日本が第2次世界大戦を始めた日である。わたしの親たちが働き盛りの年代であった。今、戦争は風化してしまい、親たちは世を去りつつあって、わたし自身飢えと不安におののいた子供時代の思い出は、どこかへ押しやりたいのが正直なところである。
 だが、戦争の足音が再び近づいている最近の状況、にもかかわらず、危機感をいっこうに感じ取っていない世の風潮を見聞きして、やはり、今、この記事を書いておかねば、と決心した。
 わたしの叔父は、僧侶であった。代々続いた寺の跡取り息子であったが、青年時代、これからは新天地に働く同胞の心の支えになると決意して、アメリカに渡った。ユタ州、カリフォルニア州と伝道、伴侶を得て結婚したばかりの頃に、第2次世界大戦となった。
 在米日本人は、敵国人となり、すべての財産、地位はとりあげられ、砂漠地帯の収容所送りとなった。叔父は人々を指導する立場にあった危険分子とランクされて、いっそうの僻地に送られた。はじめは性別で収容され、家族もばらばらにされた。が、日本の敗戦がはっきりした敗戦1年前からは、家族と住むことが許される事となった。
 収容所のまわりには有刺鉄線が張り巡らされていたが、砂漠の真ん中の厳しい気候のところでは、逃げることは死を意味したという。叔父は砂嵐で目を痛め、終生黒い眼鏡を離せなくなった。さいわい、内部ではゆるやかな自治がみとめられていたので、叔父は、その機会を活用して、逆に親鸞聖人の教えをいっそうひろめることができたのだそうである。
 ところで、収容所内で、若い2世の若者に試練がきた。合衆国政府は若者を戦地に送りたかったのである。が、敵国人であるため、まず、合衆国に忠誠であるかどうかをチェックしようとした。収容所内に動揺が走った。祖国日本を忘れられず、あくまで日本人であるとの誇りに生きる人々、祖国は日本ではあっても、現に生活しているアメリカにとけこむのが必要と考える人々。世代差、いままで受けてきた黄色人種であるための差別。その上、決定的だったのは、とらわれの身であることだった。結果、多くの若者たちが、同胞のためを願って、合衆国に忠誠を誓い、収容所から、自ら志願して戦地に赴いたのだった。
 彼らは激戦地に送られ、めざましい戦果をあげた。群を抜く戦死率だった。彼らの勇敢な戦闘ぶりは、死後、米国民として最高の栄誉をかちとった。生命を賭しての活躍は、戦後、在米日本人への人種的偏見をなくすまでとなった。
 収容所から開放された日本人の戦後はどうであったか。全員が無一文となってほうりだされたのであった。食糧自立国際シンポジュームでアメリカ代表として来日したイサオフジモトさんは、日系2世の社会学者である。彼がわたしに話したことは−−−両親はイチゴを作って成功した。戦争になって体一つで収容所にいれられた。戦後、家に戻ってみると、見知らぬ白人が住んでいて、ここは自分の家だと主張する。農園も人手にわたっていて、自分たちのものは何一つ残されていなかった。
 叔父はカリフォルニア州スタクトンの仏教教会に戻った。抑留4年、解放が遅かったため、叔母はうまれたばかりの息子を母親にあずけて、生活費を得るためにメイドとして働いた。戦後の仏教教会は文字通り人々のよりどころであった。ときには宿泊所、ときには職探しの場、そしてなによりも心のよりどころとなった。仏教教会に復帰した叔父と叔母の活躍はめざましかった。
 カリフォルニアは、全米の食糧基地である。時がたつにつれて、豊かな農地は恵みの農産物をもたらした。復興の主力が日本人であったことは言をまたない。敗戦後は日本からの農業移民が断たれたため、今日、農業生産の現場は、メキシコ、イタリア、ベトナムなどの人々で主力が担われているが、経営主体は日本人であることが多いのも特徴で、戦後日本人の努力がいかに大きかったかがうかがわれる。
 ブッシュ政権時代になってやっと、第2次世界大戦のとき、在米日本人の権利をすべて剥奪して収容所送りとしたことは誤りであったと反省され、権利回復の手段がとられることとなった。そのフェアな態度に当事者だったひとたちは、苦労が大きかっただけに心から感謝したのであった。
 ところがさだめられた戦時補償金の支払いが実際にはなかなか実行されず、ある日系国会議員の努力により、2万ドルの補償金が支払われたときには、高齢ですでに亡くなっていた人も多かったときいた。
 さて、敵となった国に肉親をおきざりにされた日本国内の家族にとっても、戦争は二重にきびしいものであった。二人きりの姉と弟であったわたしの母は、アメリカへの伝道に旅立った弟を、今度は音信不通のまま、ひたすら身の上を案じるほかなかった。叔父からこれでしばらく連絡出来ないと思うとの手紙といっしょに送られてきた茶色のハンドバッグを、母は形見と思ったに違いない。時々ハンドバッグを取り出してなでさすり、人知れず涙をながしていたのを思い出す。

 人々が引き裂かれ、暮らしを奪われ、権利をふみにじられていく戦争を、すでに日本人のわたしたちは、過去に経験している。戦争を経験した世代は、もう二度と戦争に追いやられたくない。現在、戦争に経験のない世代が増えているものの、世界から戦争はなくなるどころか、悲惨の度を加えている。日本でもまた、戦争に荷担しよういとする動きが強まっている。もう一度、わたしたちは、これからどう生きるかを問い直し、戦争のない社会を築いていくことを念願したい。


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