茨城県八郷町に暮らす
「柴栗拾い/後遺症」


橋本明子



柴栗拾い

 今年の栗は豊作だった。実のつく木は、1年おきに豊作不作を繰り返すが、今年は表年にあたっていた。八郷は栗の産地でもある。近年は、年を取って畑の手入れが無理になったシニアーのひとたちが、栗なら拾うだけだから、と、栗畑が増えた。が、どこもかしこも、同じ豊作である。町には栗を多少にかかわらず買い取ってくれる店がある。その店の買値が1キロ80円にまで落ちてしまうと、さすがのシニアー組も、拾い集めて選別し、良い栗だけを持っていく負担に価格がみあわないとあきらめてしまったようだった。
 この時期、用事で農家をたずねると、きまって栗を持っていかんかいの、とすすめられた。栽培の栗の木がない我が家では、はつものはうれしい。喜んでもらった。が、度重なると、食べるまでに手間暇のかかる栗は、うれしくないとなってしまう。正直なもので、勧める側も、はじめは誇らしげなのが、時がたつにつれて勧める声も小さくなる。悪いけど、うちにあるからと断ると、そうだろうな、どこもあるもんな、と納得する。
 栽培の栗は形も大きく、立派である。もらって、いろんな栗をたべくらべてみると、微妙に味の差があることに気がついた。畑の立地条件や、品種、手入れの有無によるのだろうか。若木の栗は若い味で深みがない。ゆでると甘くてほくほくする栗、そこまでいかず、なんとなく手の出ない栗と、さまざまである。
 食べ方は、なんといってもゆでるのが基本だと思う。大鍋にたっぷりの水を張り、1時間は中火でゆでる。ゆであがったのをふたつに割り、スプーンで食べる。保存にも、この方式を利用した。ほぐした実を砂糖で煮込み、寒天でかためたり、ぜんざいなどのおやつにしたり、そのまま冷凍したりした。
 鬼皮だけをむいて、渋皮をそこねないように注意してむいた栗は、茶色のゆで汁がでなくなるくらい何度もゆでこぼして、最後に甘く煮詰めると、渋皮煮ができあがる。おやつには最高である。また、渋皮もきれいにむきとってこまかくきざみ、米といっしょに炊き込んだ栗ご飯がおいしい。
 が、栗をおいしく食べる最大のコツは、拾ったその日のうちに調理することである。栗は、なぜか虫が付きやすく、拾った翌日には、もう虫がつづる。はじめ細かい屑がみえたかと思うと、つぎには白く太った虫がころりと出てきてしまう。翌日に調理を回すときは水につけておくようにと、シニアーのアドバイスである。冷蔵庫にいれておいてもいいよ、と若い人の声だが、わたしはまだ冷蔵庫はためしていない。
 こうした楽しみのほかに、今年は栽培でない山の柴栗も拾った。犬の散歩道で栗のいがを見つける。上をみると栗の木がある。山の栗は、他の木と競い合って伸びた先端の陽の当たる部分に実をつけるので、ふだんは気がつかない。柴栗はきまって実が小さく、拾う人もほとんどいない。が、味のいいことは栽培の栗がはるかおよばないのである。
 夫の信一は、栗拾いや山菜取りが大好きである。その上、見つけるのがじょうずである。わたしと二人で出かけると、わたしにはなにも見えないのに、春だとぜんまいやわらび、秋だと栗がいつのまにか彼の手に入っている。この秋は柴栗拾いに、いっとき熱中した。子供時代を思い出して楽しいな、と言いながら、栗の木の下の茂みを長靴の足で探るのである。一方で、彼のポケットはたちまちいっぱいになっていた。
 こうして拾われた柴栗はおいしいものの、たべるまでが大変である。皮をむくスピードは、栽培の栗にくらべて、がた落ちとなる。ゆでた栗を食べるのも、時間がかかる。が、すべてがゆっくりとなると、逆にゆっくりさを楽しむ気持ちがでてくるから不思議である。このようにして、今年の秋はゆっくりと過ぎていこうとしている。

後遺症

 うちには5匹の犬がいる。どれもが捨てられていた犬である。共通しているのは、全員雑種であることだ。そして、犬により差はあるものの、捨てられたショックで、なにかの後遺症を持つようになる。
 いちばん年上の牡犬トミーは、下痢とおねしょがほとんど1年続いた。遠吠えがやんだのは、3ヶ月くらいたってからである。捨てられたのは、2才か3才のころで、娘の泉がみかけてから半年は土浦で放浪生活を送っていた。すみかにしていた駐車場の隅の草むらが、舗装工事でなくなったのをきっかけに、八郷へつれてきたのであった。
 雌犬のピッピは、4、5ヶ月の子犬で、兄弟2匹で捨てられて、梨園の小屋にすみついたところ、牡の兄弟を梨園の主人が拾い、ひとりきりになって、そのまま小屋に住んでいた。出入りのJAの配送車が小屋に肥料を運んできたとき、ピッピの後ろ足を車輪で轢いた。すさまじい悲鳴を犬の散歩中だったわたしが聞きつけた。配送車はそのまま立ち去った。行ってみると、子犬がすわってこちらをみている。たいしたことはなかったのかと、その時は思ったのだが、次の日もその次ぎの日もすわったままである。チェックすると下半身がすっかり駄目になって、動けずにいるのだった。
 おなかが腫れあがって、そのままでは死ぬほかない状態であった。餌も水も受け付けなかった。八郷では大きな手術は無理とのことで、獣医さんに紹介してもらって草加市の動物病院で、腰の手術を受けた。腰骨にワイアーをしばりつけてもらったが、歩けるようになるかどうかは保証できないとのことであった。が、ピッピは長い療養のあげく、なんと歩けるようになった。肩と腰を、マリリンモンロー風にゆらせて、ピッピは歩くのだが、やはり負担なのだろう、肩や腰をもんでもらうことがなにより好きである。
 3番目に拾ったのはおじゃる丸で、3、4ヶ月の雌の子犬であった。交通整理のおじさんにじゃれついているところを、泉が拾ってきた。だれかがいたづらをしたのだろう、ひげもしっぽもはさみで切られていた。ほとんど絶食状態で、歯茎が真っ白で貧血、栄養失調であった。 2ヶ月くらいにしかみえないおじゃる丸は、いくら食べさせても太らず、大きくもならなかった。やっと大きくなったかと思ったのは、4ヶ月くらいたってからである。その後は順調で、今は16キロをこえる立派な犬となった。
 おじゃる丸は、子供を極端に怖がる。たぶん、いじめたり、毛をきられたりしたのだろう、子供をみるとしっぽを巻いて、すわりこんでしまう。大きな農業機械もだめである。行き会うとすわりこんでしまう。その動作から、わたしたちは彼女の過去になにか関連があるのだろうと察する。
 牡犬の大二郎は、拾ったときは18キロ、もともと大きく、毛は白かったが、うちへ来て太って23キロとなった。犬嫌いの人は、みただけで逃げたくたくなるような立派な体格である。筑波山中に捨てられて、1週間のあいだ、恥も外聞もなく泣きわめいて、聞いた人はみんな哀れに思ったらしい。その1例でもわかるとおり、大二郎は子犬がそのまま大きくなった性格である。どこかでけんかしたらしく、頬に大きな傷を負っていたが、結局からだに栄養が行き渡るまで、完治しなかった。
 最後に拾ったのは雌犬の「あうん」である。うちへ来て1年半たつのに、まだあばら骨のみえるやせ犬である。うまれて2ヶ月くらいでうちの裏山に捨てられた。大二郎よりも大きな声で、「あうーーん」と泣き続け、それは拾うときまで続いた。いや、拾ってからも、遠吠えとなって続いた。
 裏山には、うちと隣家以外人家もなく、果樹園もなく、檜や杉の林が続いて、野生のいきものが餌を探すには不向きの山である。そこで、冬の3ヶ月を生き延びたのであるから、生命力の強さに脱帽するはかない。が、その後遺症は、胃袋の未発達となり、極度の恐怖症となって、いまだに尾を引いている。
「あうん」は、経験していない物音を怖がる。夜の暗闇も怖がるので、やむなく夜は家に入れることにした。車の音や人声は平気なのに、茶碗や鍋の音、窓ガラスが風に揺れる音など、耳にしたとたん、ふるえ出す。ふるえがくると水も餌も食べられず、家の中を逃げまどって、走り回る。抱きしめても落ち着かない。冬、こたつのなかに潜り込んで、そこがやっと安住の地となった。それ以来、こたつが「あうん」の究極の隠れ家である。夏はやむなくテーブルに布をたらして、彼女の隠れ家とした。
 それぞれの捨て犬とつきあってみると、物言わぬ動物であっても、捨てられることでどれだけ傷つくか、想像以上のものがある。いきものとどうつきあうか、つくづく考えさせられる。いきものを飼うなら、一生めんどうをみてやってほしいと、願うばかりである。


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