しずみんの まう・まかん
お題:うますぎる餃子の謎


水底 沈




●ひみつの餃子店。
同居人のふるさとに、とある餃子専門店がある。老夫婦がふたりで営むこの店、小さな裏通りにあり、看板は出ているものの、外からはなんの店かわからない。営業時間にものれんは出ておらず、飛び込み、一見さんは食べることができない謎の店である。
店の中には、常に持ち帰り待ちの客がいっぱい。店で焼きたてを食べることもできるのだけれど、大抵は皆予約しておいた餃子を「5人前」「10人前」という単位で持って帰るのだ。では、予約しておけば食べられるのか、と言えばそうでもない。予約の電話は鳴りっぱなしだが、餃子作りに忙しい夫婦は受話器をとらない。まれに出てもらえても、「3時間待ちです」とか「今日は無理です」とか、にべもない。
私は幸運にもこの店の数十年来の常連である同居人のご家族のコネで、いつも予約してもらい、たらふく食べることができるのだが、雑誌やテレビでたまに紹介されて「ちょっと行ってみようか」などと立ち寄った人はまず100%食べることができない、マボロシの餃子なのだ。

●野菜、そしてたれ。
この店の餃子のうまさのポイントは3つある。野菜たっぷりのアン、熟練の焼き加減、そして謎のタレ、である。
アンには肉が使われていない。キャベツ、玉ねぎ、にんにく、しょうがをおそろしく細かく刻んだもの。ふかふかでジューシー。大量に食べても食べても、まだまだ食べられる。おばちゃんが台の上でおそろしく適当にのばして包んだ餃子を、魔女の道具のように古ぼけて黒ずんだフライパンでおじちゃんが端から焼いていく。餃子のあんははみだし、中身が出そうになっているのを、おじちゃんがちょっと眉をしかめながらちょこちょこっと修正し、ぴっちりフライパンに並べる。
焼き上がった餃子は表面がこんがり揚がり、ふかふかのじゅんわり。あんなにおばちゃんが適当に包んでいた餃子なのに、箸でひとつひとつが破れずにはがれる。今風に粉を溶いた水を流し入れて「ニセ羽根」を作るような姑息な技は使わない。このフライパン1枚で5人分。一人前7個で\200。安い。この夫婦は、この餃子で子ども3人を大学までやったのだ。えらい。餃子家族。
この焼きたてのじゅんわり餃子をプラスチックの白い丸皿にのせ、ビニール風呂敷で包み、ボトルに入った特製のタレと小さなビニール袋に入れて輪ゴムでくくった「こしょう」(一味とラー油のミックスらしきもの)を添えてできあがり。急いで帰り、はふはふと食べる。
このタレが、我が家の積年の課題なのだ。醤油、酢。甘い。油。コクがある。なにより、ここの餃子に合う。
甘いのは、九州の醤油がもとから甘い、という理由もある。この店が休みの日に、店の裏に捨ててあった醤油のビンから銘柄も確認した。産業スパイか私は。
しかし、どうやってもなかなかあの味にはならないのだ。最近同居人が研究を重ねてたどりついた道は、「酢醤油に多量に砂糖を入れる」というものであるが、近づいてきたもののなかなかあれと同じようにはいかない。あの店は子どもさんが継がない様子なので、老夫婦のどちらかが亡くなったらおしまい。今ですら「早くやめたい」というのを常連が引き留めて無理矢理営業させているような店。なくなるまでに、なんとかあの餃子とタレに近づいておきたいのだが。

●水餃子は皮が命。
うちで作る餃子で「ああ、やっぱり手作りだよね〜」と思えるのは、水餃子である。同居人は(そもそも、およそおじさんたちは)水餃子より焼き餃子の油ギッシュ感やクリスピーな歯ごたえを愛するものだが、私は実は水餃子が大好きだ。もちもちつるるん、とした皮ののどごし、優しい風味。
この皮の感触を楽しみたかったら、やはり手作りに限る。最近はスーパーの皮コーナーに「水餃子用」と称してもち粉など入れた皮も売られているけれど、水餃子の皮は根本的に厚くてもっちりしていなければいけないので、あれでは代用がきかない。
水餃子のよろしくないところは、すぐに腹にたまるところだ。皮の比率が高く、アンも焼き餃子に比べると肉が多いから仕方ないのだが、焼き餃子のように「際限もなく」というわけにはいかない。みなさんも焼き餃子はいくつでも食べるでしょう。そんなことない?ええっ。
まあともかく、水餃子を食べると「餃子は主食である」というのが腑に落ちるのだ。焼き餃子にはごはんがほしいもの。絶対。水餃子は、中国北部の粉食文化のたまものなのですねえ。



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