茨城県八郷町に暮らす
「八ツ場ダム 現地を訪ねる」


橋本明子




1.こわされた人々の暮らしと吾妻渓谷
 5月31日、群馬県の吾妻渓谷を首都圏からの6名で訪ねた。'80年代始め、八郷で有機農業の研修をした河合純男さんが、ふるさとの群馬県新治村で有機農業と建築のふたつの仕事をこなしているのを見学にいこう、ついては湿原を歩きたいともうしこんだところ、快諾してもらったのだった。河合さんは、2日目は八ツ場ダムへ案内したいというので、わたしたちはその申し出を快諾、かくて、1日目は玉原高原を歩き、2日目に吾妻渓谷を訪ねたのであった。
 はじめてみる吾妻渓谷は、谷、山全体が新緑でむせかえるようであった。見渡す限りの緑、緑。八郷で緑いっぱいのなかに生活していたはずのわたしが、それよりもっとおおくの緑のまっただ中に 埋もれそうになろうとは想像していなかった。
 谷は深く、右岸・左岸の山々は、谷をめがけて駆け下りる感じである。緑にむせかえるのも当然、渓谷全体が深く狭いのである。渓谷のいちばん狭いところは川幅2から3メートルで、昔、鹿が飛んで渡ったところから、鹿飛と名付けられた。土質はこの地帯独特の火山の噴火による岩屑なだれの堆積物で形成されており、地質学的には、きわめてもろいのだそうである。渓谷のいたるところに地滑り注意地帯がある。
 渓谷の水は、しかし清流ではなく、白濁している。上流の草津方面から山を縫って落ちる水は強酸性、鉄もコンクリートもとかしこんでしまうそうである。吾妻川の水が強酸性では飲用に適さないというので、一時ダム推進がストップしたことさえあるそうだ。これではいけないと、建設省から天下ってきた敏腕の群馬県企画部長の手によって、強酸性の川に大量の石灰を流し込み、水は中和させられて、今は成分が穏やかに変化させられているとか。
 中和したはずの水はそのまま吾妻川に流入するのではない。いったん、品木ダムという毒澄まし湖を作り、そこへ入れた後、川に落とすしくみになっていた。山奥の、人も滅多に通らない品木ダムを眼のまえにして、わたしはかって見た旧谷中村周辺で農業用水を手にするためにおおくの毒澄まし池がつくられていたた風景を思い出していた。栃木の足尾銅山は多くのひとたちの暮らしをこわしてきた。ここでも?
 きいてみると、やはりそうであった。およそ50年前、八ツ場ダムの計画が浮上して以来、まず予定地のひとびとの生活がダム計画にまきこまれ、自分たちの土地、自分たちの生活でありながら、なにひとつ自分たちできめることができない、長い年月を送らざるを得なかったのである。ダムに賛成するひと、反対するひと共々に疲れ果て、今、親の時代を引き継いだ子の代になって、再浮上したダム計画には、もう関わりたくないという、拒否反応が出ているときいた。
 その昔、ダム計画が発表されるや、予定地の長野原町、吾妻町の800人ものひとたちが反対に立ち上がった。この地を選挙区とする政治家福田氏、中曽根氏らも自分の利益誘導をもくろみ、長年、条件付き賛成派は福田、反対派は中曽根とわかれてダム反対運動はいっそう複雑化したのである。ダム予定地を抱える長野原町長も歴代苦しんだ。もともとふるさとが沈むと反対であったため、補助金をカットされ、あの手この手のいやがらせをうけて、小さな温泉町と小さな規模の段々畑の農業とで生計を営む町は立ちゆかなくなって、やむなく条件付き賛成にまわらざるを得なくなった。反対のときは、バス路線は廃止、道路や橋の補修もうち捨てられたという。
 あげく、水没戸数340戸、水没面積316ヘクタールでやむなく合意、標高500メートル以上の地点に首都圏でも有数の規模をもつダムがつくられることになった。水没後にひとびとが移住する予定の代替地は、その上の山をけずるため、標高600メートル地点にまでおしあげられてしまう。造成中の代替地工事をみせてもらった。山々の頂上から麓までの約3分の2の高さの地点を、山の背といわず谷といわず とにかく平坦な場所を得るためにひたすらけずりとっている。上から落とした土は盛り土とし、はだかになった斜面は網目シートでおおい、谷だったところは水抜きの導水管をつけてあるが、火山の噴火土砂が堆積してできたきわめてもろい土質では、いままでにも、たびたびの地滑りに襲われているときく。それが、山や土の性質も読まず、ひたすらブルドーザーでならす工事では、移転後の2次災害 が心配されるのも当然のことである。
 子どもたちが通う長野原第一小学校は、すでに代替地での建設が終わっていた。山をけずりとった小さな斜面いっぱいに校舎が建てられたため、校舎のすぐうしろに砂防ダムがつけられている。大小あわせて7基もあるとか。砂防ダム直下の学校は他になく危険との声がはやくも父兄のみならず、識者からもあがっている。学校は、黄色やクリーム色の明るい色で近代的に作られているため、なおさら痛々しい感じをうけるのである。

2.ダムは必要なのか?
 八ツ場ダムは必要がないという声がはやくからあがっていた。水を必要とするのは、ほとんどが首都圏である。利用を申し出ていたのは、東京都、千葉県、埼玉県、栃木県、茨城県にまでひろがる広域であるが、ここ10年で水需要は一変した。当初の予想とことなり、水あまり時代をむかえたといわれる。まず、人口だが、2006年にピークを迎え、その後漸減傾向といわれるのに対し、すでにここ10年間のこれら首都圏の水需要は頭打ちで、横這い状態だそうである。八ツ場ダム以外の水源開発が先行したこともあって、水の供給がうわまわっている。これ以上のダムはいらないのである。
 次にダム効果への疑問がだされるようになった。治山治水にはダムでなく、他の方法を考える時代となった。すでに「脱ダム宣言」は'94年アメリカでだされ、00年には国内48件中止。群馬県では川古ダム、平川ダムが中止。01年長野県知事の「脱ダム宣言」。02年群馬県栗原川ダム中止。03年栃木県知事、県営東大芦川ダム中止を表明。同年群馬県知事県営倉淵ダム凍結表明。同年国土交通省、水資源機構、群馬県戸倉ダムを中止。と、中止、凍結が相次いでいる。
 さらに長引く不況の影響もあって、経済合理性に見合わない巨大公共事業費の見直しがはじめられた。群馬県営倉淵ダムは国営にくらべれば規模はちいさいとはいえ、総額400億円が計上されていた。県民の財布から捻出される分が減った。この流れにそってか、国交省は、04年1月需要減・財政難で、利根川、淀川など7水系では、新たな利水ダム建設計画を断念する方針をきめている。ただし、これまでの計画で認められたダム建設計画は継続する方針だが、水資源機構が中心となっていた戸倉ダムが中止となって、既存計画も見直す動きがでてきたことは、見逃せない。
 八ツ場ダムの不合理なところは、50年余の年月をかけたこともあるが、当初予算のほぼ2倍の金額約6000億円が必要となったことである。これを国税、各都県の地方税、水道料金で支払うのだが、払う主体はわたしたち国民ひとりひとりであることをわすれないで欲しい。もう少しこまかくみると、東京都民負担額1270億円、埼玉県民負担額1210億円、千葉県民負担額760億円、茨城県民負担額390億円、栃木県民負担額14億円、それとは別に国税として4600億円を負担することになる。環境問題にやさしいといわれた千葉県知事をはじめ、各都県とも負担額倍増を受け入れ、最後に残った群馬県も04年6月11日の群馬県議会で八ツ場ダム総事業費倍増の国の基本計画変更に同意してしまった。

3.工事現場近くの国道沿いには、「やんば館」
 工事現場にはりっぱな2階建ての国交省広報センター「やんば館」がつくられていた。10名にみたないわたしたちに笑顔の職員2名が懇切ていねいなレクチュアと専用バスでの現地案内にたってくれ、「ダム反対」「わたしたちの税金をつかうのはいや」といったはっきりしたわたしたちの態度表明にもびくともしなかった。が、現地案内の途中でりっぱな2車線コンクリート道路を通過しながら、「ここは以前、軽自動車1台も行き会えない山道だったんですよ。生活はぐんと便利になりました」と宣伝するのを忘れなかった。
 現在、「八ツ場ダムを考える会」が地元で活動しているほか、同じ趣旨の会が東京、埼玉、千葉、小平、太田、佐倉などで活動している。「考える会」の事務局長真下淑恵さんは、「50年間、ダムにふりまわされ、他の道のなくなった地元のひとたちには、手厚い再建の補償をしてもらいたい。そして、ダムの本体事業だけはくいとめるまでがんばる」との決意であった。

「川原から草津を経て渋峠へ」より(若山牧水)
(約80年前の執筆)
 私はどうかこの渓間がいつまでも、この寂しみと深みとをたたえて永久にしげっていてくれることを心から祈るものである。ほんとうに土地の有志家といわず、群馬県の当局者といわず、どうか私と同じ心で、このそう大でもない森林のために、永久の愛護者となってほしいものである。もしこの流れを挟んだ森林が無くなるようなことでもあれば、諸君が自慢しているこの渓谷は、水が枯れたよりは悲惨なものになるに決まっている。

参考資料:「八ツ場ダムを考える会」機関紙、
国交省パンフレット。


八ツ場ダム工事事務所ホームページ http://www.ktr.mlit.go.jp/yanba/
八ツ場ダムを考える会ホームページ http://yamba.parfe.jp/





copyright 1998-2003 nemohamo