冷夏に思う10年前
〜凶作と食の自立、そして遺伝子組み換え


牧下圭貴





  2003年夏、東北地方は梅雨明けが宣言されず、関東地方は春先から日照不足、寒梅雨、長梅雨となりました。早くから台風が来たり、記録的な暴風雨になったり。お盆に10月頃の寒気がやってきたりと、体調を崩す人も多いようです。
 山形の米農家に話を聞いたところ、お盆なのにコシヒカリの出穂がまだだとのことです。いつもならお盆前は35度を超えるような暑い日が続き、お盆前には出穂します。無事収穫できるかどうか、心配でなりません。というのも、1993年の夏から1994年にかけての出来事が思いだされるからです。
 1993年は、冷夏・凶作・米パニック・緊急輸入の年でした。東京でも梅雨は明けず、夏日は1日だけ。半袖姿の人が少ない夏でした。東北日本海側では青く天を向いたままの稲穂が実を付けることなく立っていました。全国の作況指数は74と発表されています。青森県下北では作況指数0でした。
 2003年の冷夏は今までのところ1993年の冷夏ほどではないようです。
 しかし、毎年のように「異常気象」が言われ、年によっては必ず冷夏が来ます。そのたびに、農作物に大きな影響がでます。

 もう一度、1993年のできごとをふりかえり、この10年間をかえりみます。

【1993年の凶作で何が起きたか】

 1993年は冷夏でした。米だけでなく、野菜や果物ものきなみ不作でした。冷房器具や衣料品、ビールなどの夏物商品も売れず、明るい年ではありませんでした。
 この年の秋に収穫された米は793万トンです。当時、日本人が国内で1年間に消費するお米の量は約1000万トンでした。差し引き約210万トンが足りないことになります。
 1993年9月下旬、冷夏と米の不作報道が本格化します。1993年9月末、政府は100万トンの米緊急輸入を決定します。輸入予定はその後266万トンまでふくれあがります。
 東北が収穫期に入ると、東北で農家が飯米(自家用米)を購入しているという報道が流れはじめました。
 輸入米が販売されはじめた94年年始頃から本格的な米パニックがはじまります。米価格の高騰、輸入米の売れ残りで小さな米屋は値段をつり上げ、お得意先にしか売らなくなったりします。米の販売に行列ができ、どこでも国産米は売り切れ状態となります。3月になると食糧庁が国産米不足を理由に輸入米のブレンド販売を決定し、混乱が広がりました。
 輸入米は、タイ、中国、アメリカから届けられましたが、いずれも不人気で、タイ米が大量に廃棄されているのが見つかり、タイ国内で日本人の礼を失した態度に怒りを示す新聞記事が掲載されました。
 後日談になりますが、ある米屋では輸入米を得意先に販売することができず、大量の輸入米を在庫としてかかえ1995年になっても「終わるまで食べ続ける」と言っていた姿がテレビで放映されていました。
 国内は大混乱です。
 一方海外でも、日本の緊急輸入の余波を受けていました。当時の世界の米貿易量は年間1200万トンです。生産量の3〜4%に過ぎません。米はどの国でも自給的な作物だったのです。それまで0だった日本が急に266万トンの輸入を発表したのです。最終的には輸入米が残ったため255万トン(1994年8月まで)の輸入で終了しましたが、それでも世界の貿易量の2割の需要が突然登場したのです。しかも、金満日本です。金に糸目はつけません。米の貿易価格は約2倍に高騰し、輸出国のタイでも国内のお米の価格が上がり、人々の生活を苦しめることになりました。輸入国のアフリカやイランなどでも米が買えずに苦労したと報じられています。
 まさに飢餓を他の国に輸出して生きのびたのです。
 そして、1994年のお米が豊作になったため、輸入米は90万トンが在庫として残り、しかも、ないはずの国産1993年産米まで在庫として残っていたことが明らかになりました。
 恥の上塗りです。

【なぜ米が足りなくなったのか?】

 1966年に米の100%自給を達成して以来、1984年に韓国から15万トンを輸入した時を除いて、米の輸入は行われていませんでした。
 むしろ、1966年の米自給100%達成以後、日本人の食の消費動向が変わりました。高度成長に伴って肉や脂肪分の消費が増え、米の消費が減っていったのです。一方、生産量は年々増加したため、当時生産量の全量を買い取っていた政府は米余りに苦しみ、1970年から生産調整をはじめます。1980年の冷害から1983年にかけて米の不作が続き、1983年、政府は古々米の1978年産米(5年前の米)を流通させようとしますが、薫蒸薬の臭素が残留していたため結局韓国に「貸していた」米15万トンを前倒し返却してもらうという形で緊急輸入して急場をしのぎました。
 その後も、減反政策は止まることなく、単年度の需給がつりあうようにするための計画を立てていました。
 1991年、作況指数95の不作がありました。そのため、翌年(1996年)10月現在で政府の米在庫量は26万トンとなり、1992年産の早場米で食べつないでいました。すでに需給調整がうまくいっていなかったのです。そこで、食糧庁は92年の秋に一部復田を呼びかけました。復田奨励金をつけていましたが、一方で、減反政策も補助金付きで続けています。当然、よびかけにこたえる生産者は少なく、十分な復田はできませんでした。復田は大変な作業です。減反政策が続くと予想される中、一時的な米不足のために復田することは常識的にも考えにくいことです。そのため、1993年にもし不作にならなくても、1994年の秋にはお米不足に近い状態になることが予想されていました。
 政府の減反政策、米の需給政策は1992年の時点で破綻していたのです。
 政府(農水省・食糧庁)は1993年の冷夏で救われました。政策失敗が明らかになる年に大冷害が起こり、すべてを自然災害であるかのように見せかけられたのです。

【10年の変化】

 1993年は、日本の米と農業、水田にとって大きな判断を求められた年でもありました。この年の暮れまでにガット・ウルグアイラウンドの決着が迫られていました。日本は、オレンジ・牛肉などの輸入自由化を受けても米だけは輸入を認めようとしませんでした。このまま輸入拒否をするか、自由化を拒否しミニマムアクセス(最低貿易量)を受け入れて一部輸入をはじめるか、それとも、自由化(関税化)に踏み切るか、という選択肢しか残されていませんでした。
 1993年秋の緊急輸入決定は、米の輸入開始に向けた世論形成に大きく貢献したようです。
 結局、政府は、ミニマムアクセス方式での輸入を決め、自由化(関税化)を決めるまで毎年輸入量が増えるという国際的なペナルティを受け入れることにしました。
 そして、1994年12月、輸入開始という事実に合わせるため従来の食糧管理法(食管法)を主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律(食糧法)に変えました。これにより、政府は備蓄義務を負い、生産者は原則として栽培する自由、販売する自由を手に入れたことになりますが、減反政策は「民間主導」で引き続き行われるとされました。しかし、実際には政府が介入して減反政策を引き続きすすめ、農協組織がそれを支援するという形は、その後もまったく変わりませんでした。
 なお、ガット・ウルグアイラウンドはWTO(世界貿易機関)となり、日本は1999年4月、米の貿易自由化(関税化)に踏み切ります。
 1994年以降、米の生産量は豊作で推移しました。また、消費量はわずかながら減りつつもほぼ横ばいを続けています。米の価格は下がり、政策誘導もあって水田を大豆畑や果樹園などに切り替えたり、耕作放棄する田んぼがさらに増えています。
「兼業農家も専業農家も機械をわざわざ更新しようと思わない。一部の米農家を除いては、ただ、そこに田んぼがあるから米を作り続けている。しんどくなったら誰かに貸して管理してもらう。誰も管理してくれなかったら、あとは耕作放棄するしかない。そういうふうにゆっくりと自覚しないままに死んでいくのが今の日本の水田と農家だ」とある米生産者の言葉です。
 2001年現在、農水省の統計によると米の国内生産量は905.7万トン、輸入量は78.6万トン、輸出量は60.3万トン、純食糧消費量809.5万トン(ひとりあたり63.6kg)です。また、自給率は米全体で95%、うち主食用のみは100%です。
 2003年7月、食糧庁がなくなりました。BSE(狂牛病)問題からはじまった食品の安全議論で総務省に食品安全委員会が設置されることとなり、それにともなってなぜか食糧庁が廃止され、全国の食糧事務所は農政事務所に名前を変えました。そして、減反政策は農林水産省総合食料局にうつり、農政事務所は食品の安全問題と減反(生産調整)問題を扱う地方事務所となりました。
 食糧庁の末路は、米政策の末路を象徴しているようです。そして、食糧庁から多くの事務方が移行した食品安全委員会に、どうしても不安を覚えてしまいます。

【人々の工夫】

 1993年の凶作と1994年の米パニックは、産直の米生産者や生協・有機農産物等流通団体にも大きな影響を与えました。産直の米生産者には申込が殺到し、「子どもの分だけでも」という声に自分の飯米も一部分けたりということがありました。生協や宅配流通団体でも同様で、新規入会が増えたものの、米は予約量しかないため需給のバランスが崩れました。そんななか、1994年以降、米パニックのようなことを起こさないようにしようという動きが生まれました。
 ある個人向け産直の米生産者は、個人向けの予約をおおまかに受けておき、常に15%ぐらいの備蓄をして万一の不作に備え、翌年余ったら市場に流すという形で米不足に対応することにしました。これにより、市場向けには安くなりますが、契約している消費者には安心してもらえると胸を張ります。
 ある流通団体は、「備蓄米」制度を導入し、1年前倒しで米の代金を先払いしてもらい、翌年の秋まで産地で米を保存し、それを翌年、備蓄米として契約した消費者に届けるというしくみをつくりました。
 別の流通団体は、米だけの会員を募集し、全国の減農薬などの米生産者と契約して、産地や品種を選べないかわりに安定供給をはかるというしくみをつくり不作に備えています。
 また、個々の消費者も、産直で米を買う人が増えています。産直をする生産者側も、ホタルの里を保全する、あるいは野鳥を保全するなど、地域環境保全と有機農業や減農薬栽培を組み合わせて消費者に参加を呼びかけ、安定的なつながりをつくっています。

【減反裁判】

 1993年の凶作と1994年の米パニックについて語るとき、どうしてもはずせない動きがあります。それは減反差し止め訴訟です。1994年10月、減反政策の中止を求めて生産者、消費者1079人が東京地方裁判所に裁判を起こしました。裁判は、減反政策が米生産者の作る自由、売る自由をうばい、米パニックのように食べる自由、生きる権利さえうばうものであったとして、減反政策の中止を求めるものでした。裁判では、多くの生産者が意見陳述を行い、減反政策によって、農村が荒廃し、田んぼがすたれ、生産者の間に溝ができていった様子を訴えました。被告である政府は、減反政策を政府が強制的に行ったことはなく、「生産調整の実行はあくまで、市町村や農協などが主体である」として、被告にはなり得ないと主張しました。
 裁判は長期化し、一審判決は2001年、二審と最高裁判決はそれぞれ2002年に下され、原告は敗訴しました。
 その間に、食管法は食糧法へ移り変わり、減反政策は民間主導になるとされました。
 農水省が公開した資料を読めば、2002年12月の米政策改革大綱でさえ「農業者・農業者団体が自主的・主体的にお米の生産調整を行う方式に転換」(Q&A)するとしており、減反政策の民間への移行をうたった1994年の食糧法改定後も、減反政策を国主導で行ってきたことが読みとれます。
 この裁判を通して、減反政策は法律などの根拠がないままにはじめられ、大きな補助金と行政機関の権限拡大のためにすすめられたもので、日本の農業や食糧のことを考えてすすめられてきたものではないことがはっきりしてきました。
 1000人以上の人たちが、農業と食のあり方を真剣に考えて裁判を起こしたことは、その後の政府の動きにも少なからぬ影響を与えたようです。

【食の自立と遺伝子組み換え】

 1996年、遺伝子組み換え大豆、ナタネ、トウモロコシ、ジャガイモが輸入開始されました。主に飼料用でしたが、食用油、加工食品、菓子などにも使われています。全国の消費者による運動を受け、2000年3月に「消費者への情報」のために表示制度が実現します。しかし、その後、未承認のトウモロコシ「スターリンク」が混入していることを日本の消費者団体がつきとめ、世界的な問題になります。
 すでに日本で流通する大豆やナタネの半分、トウモロコシの30%以上が遺伝子組み換え作物になっていると推定されています。幸いなことに、現在まで遺伝子組み換え作物の商用栽培は国内で行われていません。つまり、日本で消費される遺伝子組み換え作物はすべて輸入されています。
 一方、ヨーロッパでは、遺伝子組み換え作物に対して環境への懸念から各地で遺伝子組み換え作物の輸入を中止していました。2003年、EUとして表示の厳格化、混入率の厳格化などの規制を行うことで中止していた輸入を再開するとしましたが、実質的にこれまでの輸入中止を補完するものであり、EUは域内での遺伝子組み換え作物の生産、輸入を認めない方針を貫いています。
 日本とヨーロッパの違いはどこにあるのでしょうか。一番大きな違いは、食料自給です。EU域内は食料自給率が100%を超えています。かつて自給率が低いとされてきたイギリスやドイツでさえ、自給率は向上し、イギリスで100%を超え、ドイツでもほぼ自給可能な状態になっています。もちろん、EU域内での貿易とEU域外への輸出入があり、品目別に見れば輸入が多いものもあるでしょう。しかし、全体での自給率の高さが、アメリカなどの農産物大国に対して、たとえば、遺伝子組み換え作物はいらないと主張できる背景にあります。
 日本の今の現状では、遺伝子組み換え作物はいらないと主張しても、もはや代替のものがありません。
 今の日本は、食料輸出国や輸出企業の言いなりです。
 食の自立、すなわち日本国内の食料自給率向上なしに、遺伝子組み換え問題の本当の解決はできません。
 凶作のたび、不作のたび、なにか国内食品の安全性に問題が起こるたびに、どこかから「今までよりも安く」輸入してくるというこれまでの図式は、やがて成り立たなくなるでしょう。
 冷夏は、1年で終わるとは限りません。異常気象は、1年で終わるとは限りません。食料は1カ月つきると生きていけません。私たちは、自分の食料をどこで、どのように調達するのか、ひとりひとりが考え、行動する必要があります。
 これは生産者の問題ではありません。誰かに食を頼っている私のような都市生活者こそ真剣に取り組まなければならない問題です。

 ヨーロッパでは酷暑が続き、氷河が溶け、湖が干上がり、フランスでは3000人が死亡と伝えられています。中国の東部や南部では猛暑と干ばつで農業に大きな被害を与えている一方、中部では大雨と冷夏ということです。
 局地的な異常気象ではなく、世界的な異常気象が起こることは不思議ではありません。
 食料が不足したとき、他国に輸出することは、たとえ売買契約があったとしても許されないことでしょう。

 もう一度、1993年の気持ちを思いだして、できることからはじめませんか?






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