農業とはホントに何なんだ!

潮田 和也



 腹が減った。とりあえず米を炊く。おかずをさがす。卵があったので卵焼きを焼く。あとは漬け物でもあればとりあえず腹は満たされる。
 米を炊くのも待てないくらい腹が減っていたら、冷蔵庫に冷凍うどんがあったのでそれをゆでて、つゆをぶっかけて、のりがあったのでそれをぱらぱらとかけて食う。いちおう満足する。

 腹が減ったら、冷蔵庫の野菜室をのぞくのではなく、まず炊飯器をのぞく。米があるのを確認してから、肉や野菜のおかずを考える。穀物がいかに大事か、ということだ。
 穀物は、農産物でも特別扱いである。人々はほうれん草が不作でも、雑草でも食えばいいと思うのか、そんなに不安に陥ることはない。たけのこだったら隣の家の竹藪のおかげで、僕の家の風呂場の横にも出てくるのでおいしくいただいている。法的には隣の家のものらしい。狂牛病で牛肉が食べられなくなるのでは? というときでも、皇居の錦鯉でもつればいいや、と思うのか、タンパク質がとれなくなる、と不安に陥ることはない。事実、狂牛病の時は、すしがひじょうに売れたようだ。
 しかし、米ができないと、1993年のあの大騒ぎのように、日本中大変である。穀物生産は、絶対になくなってはならない、命がけの産業なのである。

 日本では昔から必ず誰かが米や小麦を作っていた。大昔はきっと、ほとんどの世帯で米を作っていたんだろうが、時代が進むにつれ、魚を釣るのが得意だと漁師になったり、ケンカが強いと武士になったり、僕のような容姿であれば歌舞伎役者になっていたわけだ。
 今は、極めておおよそだが、日本の15軒〜20軒に1軒くらいが農家、と考えていい。だから国産の農産物に限っては、20家族分の野菜や米を、1軒の農家が作っていることになる。米に関しても、直接お米を買ったり、お金のないサラリーマンが吉野屋で280円で食べたりしているのを入れると、だいたい一家族3俵(一俵=60kg)くらい食べているようだ。米農家は20軒分、つまり平均60俵くらいの米を作っているのわけだが、平均60俵というのは、兼業の農家や片手間に米を作っている農家なども入れている数字であって、実際は農家が米だけでサラリーマン並に稼ぐには、5ヘクタールや10ヘクタールの田んぼを持って、60俵の10倍から20倍の量を作らないとならない。これには経験、知識、技術、そして資本も必要な、誰でもできるわけじゃない立派な「事業」である。
 効率的に集中的に作物をつくるようになって、少ない農家数でも十分な量を安く手に入れることができるようになったわけだが、もっと稼ごうと集中化が過ぎると、どんどん大規模になり、作物が全部同じようにできて前もって病気にもかからないようにしようと、農薬や化学肥料をバンバン使うようになった。そして「こりゃまずい」と、1970年代後半くらいに、「有機農業運動」が広まってきたわけである。
 僕は仕事で、農家に農薬、化学肥料を使わないことを目指してもらっているが、それは、病気や害虫で「売るものがなくなってしまう危険」により近づいてもらっている、ということでもある。
 以前、なすに病気が出て低農薬になったとき、消費者から、「『なす』なんて、私が市民農園で作ってるやつは簡単に無農薬でできるのに、なんで低農薬の農家がいるの?」という手紙をもらったことがある。市民農園は「失敗してもかまわないもんねー」という気持ちで作れるが、農家にとっての失敗は、収入ゼロを意味するのである。
 たくさん作りすぎる事は害虫も病気も集中して被害にあう率が逆に高くなり、良くないことだが、かといって、20世帯に1世帯しかいない農家がみんな市民農園並みだったら、日本の食べ物は調達できない。
 つまり農家は、必ず「たくさん作らねばならず、しかも失敗できない」という運命にある。

 ビデオカメラのメーカーは、販売計画に合わせて資材を購入し、工場のラインで組み立てていって、ほぼ計画的に行く。いったん流れれば、倍の量をつくることは簡単なので、すぐに生産量を増やせる。
 年一作の米や果樹は、農家が一生でも50回くらいしかつくれず、50回つくった農家すら、農業には様々なことが多すぎて、法則を見つけ「誰でも作れるマニュアル」を作ることができない。だから、ビデオカメラの工場があちこちに進出できるのと違い、一人の農家の「目の届く範囲」でしか生産できないことになる。それは「生産量をどんどん増やしていくことができない」ということでもあるのだ。

 とりとめないが、ようするに何を言いたいかというと、農業はやっぱり他の産業とは違うぞ、農家は重要だってことだ。

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