倉渕村就農スケッチ・「山羊を飼う理由」
和田 裕之、岡 佳子

5月の末、わが家に生後1ヵ月の雌の仔山羊がやってきた。名前は息子の太一が「リン」と名付けた。リンちゃんは真っ白の毛に角を持ち、あごの下にかわいいボンテン(肉髯という)がある。今ではこの半年足らずの間にわが家に来た時の3倍くらい大きくなった。といっても毎日見ている私たちはあまり気付かないのだが。
 初めの頃は軽々と抱き上げていたが、今では力も強くなり散歩も大変だ。山羊は「山の羊」と言うだけあって、高いところや崖などが大好きで、少しでも高いところに登ろうとする。うっかりリンちゃんの近くに車を置いておくとすぐにボンネットの上に飛び乗り、そこから車の屋根に登ったり、窓から中に入ろうとする。トラクターの座席は格好の昼寝場所になっている。一度留守の間に綱が外れたことがあったのだが、なんと車庫から階段を上って2階にいた。
 その習性に対して一番気をつけなければならないことは、リンの側で決して腰を下ろしてはならないということ。リンは普段首輪と鎖で繋がれていて、天気のよい日は庭や畑の草のあるところに繋がれているが、場所を移動させるため綱を解こうと腰をかがめると、なんと人間の肩の上にも軽々と乗ってくる。彼女にとっては軽々だが、下になった人間は大変。重いし蹄は肩に食い込み痛いし…。まったく肩乗り山羊なんてサーカスでもはじめようかしら…。でも平らなところではなくとも、どんな場所でも飼える山羊は、一昔ふた昔前には多くの家で家畜として飼われていたと聞く。我が家で飼いはじめて、近所の人や通りすがりの年配の人が、「なつかしいなあ。うちにも昔いたよ。」と話してくれる。実際に、山羊は戦後1955年をピークに約67万頭も飼われていたという。
 わが家で山羊を飼うことになった一番の理由は「自給」のためである。野菜、米、卵の自給はほぼできてきたが、牛乳好きのわが家では、次の課題が牛乳、乳製品の自給なのだ。牛は餌の確保、自給がむずかしい。その点山羊は濃厚飼料等は必要なく、餌は草だけで充分なのである。穀物などの濃厚飼料を与えるとかえって病気になったり、産道に脂肪がついたりでよくないのだそうだ。リンちゃんには家や畑のまわりの草や小枝若葉、たけのこ、笹、野菜の残りくずなどをやっている、というか食べている。野菜の残さ以外は、えさとして私たちが与えているのではなく、自分でまわりにあるものを探して食べているのだ。本当に手間がかからず、除草の手伝いをしてくれているほどだ。草の伸びたところに彼女をつなぐとまわりのおいしそうな草から食べて、好みでない草の上で昼寝をして結果的に1週間もすれば雑草はきれいになくなっているのである。また今まで堆肥に積むしかなかったインゲンやズッキーニ、レタスのはじき(商品にならない残り野菜)や収穫後のとうもろこしや枝豆、小豆などの茎や葉、さやを本当においしそうに食べてくれる。まったく農家としてはありがたく、もってこいの家畜なのだ。
 また山羊は子どもの遊び相手にもなる。わが家に来たばかりのとき、母山羊から離されて見知らぬところにやって来たリンはしばらくの間「メエーメエー」と悲しそうにないていた。そのリンがはじめて心を許したのが同じくらい小さくて、同じようなおっぱいの匂いのする、1歳の太緒だった。草を人の手から食べようとしなかったのに太緒がその辺の草をむしりとって、リンの口の前に出したその草をおいしそうに食べたのだ。それからリンは急速に慣れてきて、今ではとてもあまえっ子の山羊になった。太緒と太一はおいしそうな草や樹の葉を見つけるとリンに持っていく。時どきリンは彼らの「ままごとレストラン」のお客さんになっているようだ。ズッキーニやインゲンを小さく切って、葉っぱのお皿に盛り付け、彩りにたんぽぽと赤いクローバーをつけると残さず食べてくれるのでネ。
 来年からの山羊乳・チーズ作りが今から楽しみだ。(岡 佳子)


 学生時代馬術部だった佳子は馬を飼いたいとしきりに言っていた。馬は牛の10倍も手がかかると元牛飼いのおじいさんから聞いて、かなり私はビビッた。しかも馬や牛は餌の自給が難しい。
 放牧されて泥浴びをしている豚の姿をよく見かける。気持ちよさそうで、幸せそうな顔をしている。豚は元来きれい好きとも聞くし、飼い方次第では楽しそうだ。でも豚はたくさん食べる。これも餌の自給が難しい。
 わが家では、現在雌10羽雄1羽の鶏を飼っている。鶏糞と産直便の卵が欲しいので、将来的には100〜200羽くらい飼いたい。でも、鶏も餌の自給が難しい。遺伝子組み換えのない飼料、国産の飼料を確保するのも大変な労力と経費が必要になる。
 そこで山羊。すでに佳子が記したように、山羊なら100%餌の自給が可能だ。もっとも、飼いやすいといわれる山羊でも、餌をやったり(特に雨の日)、小屋を作ったり、散歩に連れて行ったり、構ってやったり、乳を搾ったりとそれなりに手間はかかる。考えようによっては、山羊乳を搾るより牛乳を買う方が安上がりかもしれない。お米でも作るより買う方が安いとよく耳にする。山間地の倉渕村では米作りは手間がかかり過ぎる。それでも、自分で作った米(主食)を食べたいという思いと、この山間地の水田を「水田として」維持し続けることに価値を見出している(3年も休水田すると水田に戻すのに大変な労力を必要とする)から、あえて自ら米を作る。それと同じような思いで、野菜の売上や収入の増加よりも、動物を飼う暮らし、自給や物々交換による脱貨幣的な生き方を重視したい。
 時流に乗るような華やかな生活ではなく、「勝ち組み・負け組み」などといった価値観そのものを無効化するような、「山羊を飼う」というそのことが、大勢に抗したもう一つの「豊かな暮らし」としての提案でありたい。人々が無意識のレベルで抱いてしまっている様々な欲望をさえ揺さぶり解きほぐすような別の価値観の提出を、喜びに満ちた農的な日々の暮らしを地道に続けていきたい。(和田 裕之)

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