チレチレ便り 五感でとらえるチリの食

池田久子

■四季と食べもの
 10月、春まっさかりのチリ。こぶしの花は終わりかけ、庭の藤棚はぎっしり藤の花が垂れ下がり、しゃくやくやバラの蕾がふくらみアジサイの葉が茂ってきています。そろそろ、家庭菜園の準備をしなきゃなあという今日この頃。
 この村にやってきて2年目の春を迎えたいま、四季の大体の流れが五感で感じられるようになりました。いつごろあの虫が飛んでくるか、いつごろ子羊が駆け回っているか、いつごろ雨が少なくなるか、いつごろあの花が咲き出すか…などなど。
 チリで感じてきた四季と食べ物についてのお話です。
 チリは南北に細長く、北は砂漠、南は雨の多い寒い地域ですが、私は日本と同じように四季のある中央の地中海性気候と言われる地域に住んでいます。場所によって気候も農業も食生活も全然違いますが、幸い私のすむ地域では野菜や果物はほとんど日本と同じようなものが手に入ります。食卓の中で明らかに違うと感じるのは、菌茸類、山菜類、海藻類、魚介類の少なさで、味付けは塩、オレガノなどのハーブ類、マヨネーズ、ケチャップ、激辛ではない唐辛子やニンニクのみで少し単調。味噌や納豆、漬物のような複雑な味をもった発酵食品はチーズ以外ありませんし、ほとんど野菜、肉、あとはパン、米や全粒麦の加工品などの炭水化物で占められています。しかし幸い我が家は料理上手なマリア小母さんのお陰で1年以上たってもチリ料理に厭きることがありません。
 さて、チリの四季。私の印象では寒さも和らいだころ迎える建国記念日(スペインからの独立記念日)である9月18日を境にチリの春は始まります。この1年で一番大切な18日(ディエシオッチョ)が近づくにつれて、町には露店が立ち並び、ウインドウはチリの旗の赤青白の3色で飾り付けられ、アサド(焼肉)のための肉の手配やエンパナーダというミートパイやチレニートスというお菓子づくりの段取りで女性らはソワソワします。18日の前日は役場も半ドン、19日も国民の休日で、おまけに土日が近いと、20日もほとんど働かずディエシオッチョの雰囲気を3、4日はひきずります。この間、村の広場の横には飲んだり食べたり踊ったりする夜店が立ち、夜中までガンガンと音楽をかけています。これは日本の正月のようなもの。親戚や子供が里帰りして集まり、子羊か子豚の焼肉(アサド)を囲み、伝統舞踊クエッカを踊ったり、チチャというブドウのお酒を飲んだりエンパナーダを食べたりして、建国をお祝いするのです。さて、アサドはクリスマスや正月、誰かの誕生日など特別な日や、人を招いてのパーティーなどにしますが、日本の焼肉と違い分厚い肉片を炭火でひっくり返しつつ焼いた肉は本当に美味しいものです。
 10月、カンポ(田舎)が一番美しく花が咲き乱れる季節。小さな子豚や子羊が跳ね回り、小麦やエンバクが伸び始め、ブドウは若芽を出し青々した葉を開き始め、ハウスで作っているアスパラガスやイチゴが出回り始めます。
 11月、スモモの青い実を齧るころ、ソラマメ、えんどう豆がほんのわずかな時期食べられます。たっぷりの甘いえんどう豆に子羊の肉を煮込んだ料理はこの時期にしか食べられない私の大好物。11月から12月は桃やスモモ、サクランボなど日本とは比べ物にならないほど安くてどれも美味しい果物が出回ります。この時期マリアおばさんは、パパイヤやサクランボ、桃のシロップ漬けを瓶にたくさん作り、お客さんや特別の日のためのデザートとして保存します。またイチゴ、黄桃、野イチゴ、メロン、ラズベリーなどのジャムもたくさん作ります。そして夏はトマト、青トウガラシ、キュウリ、ズッキーニ、トウモロコシなどの野菜がおいしくなります。トウモロコシを使ったチマキのようなウミータやお菓子のように甘いパステル・デ・チョクロという伝統料理がレストランのメニューに加えられるのもこの季節です。11月を過ぎると雨もふらなくなり、真夏になる12月から2月末まではカンポは一面カラカラした乾いた光景が広がります。学校の新学期は初秋である3月から始まり、真夏に入る12月に終わり、役場なども真夏の1月2月はバケーションの時期に入り、人によっては2〜4週間ほど休みをとり、南に旅行したり、海辺の別荘でのんびり過ごしたりします。夏のスイカやメロンに飽きてきた2月過ぎからブドウの美味しい季節が始まります。
 3月にブドウの収穫と醸造が終わるころ雨が降り始め、一雨ごとに寒くなりあれほど長かった夏があっというまに終わって秋が急にやってきます。秋には栗やカキも見られます。こっちでもカキと呼ばれる柿は、品種改良される前の古い樹種なのかシブが強く、堅い実を採って熟させたトロトロを食べます。4月には紅葉、落葉し、5月から7月か8月までは完全に雨がちの寒い冬です。この時期は大雨で川が増水したり場所によっては浸水するけれど、この時期に雨が少なければ夏に生活用水である井戸が枯れたりしてしまいます。7月に学校は2週間の冬休みをとり、晩冬である8月を迎えます。冬は野菜や果物の種類が減りますが、代わりに豆料理や七面鳥のスープ、ストーブで焼いたソーセージにブドウから作った焼酎を熱いマテ茶に入れたり、赤ワインを温めて飲んだりと違った楽しみも増えます。このようにして1年が過ぎていきました。

■動物の命に感じる四季
 振り返ればチリで感じた四季は野菜や果物の旬よりも、動物の命の流れのほうが印象強かったように思います。
 日本のように「ワラビが出た、春がきたな」「松茸の季節だ」と野や山で見つけられる自然の恩恵に季節を感じるということはほとんどない代わりに「そろそろ子羊が食べられるな」「鶏がよく卵を産むようになってきた」「七面鳥のおいしい時期だ」「牛乳配達も子牛への授乳期間だから当分お休みか」「蜜蜂の箱を置く時期か」「雨が多いから泥エビの採れるころだなあ」などと家畜や動物たちに季節を感じてきました。
 家畜の飼いかたは放牧で、畜舎飼いはめったにありません。干したエンバクを固めて梱包した干草も売られていますが、見る限りだいたい家畜は一日中草を食み木陰で寝そべり、子どもが母親にまとわりつき、子供同士遊んだりとのどかな光景を見せてくれます。農家はだいたい、羊や豚を数頭、放し飼いの鶏や七面鳥、アヒルなどを飼い、お金が必要な時にそれを売り、大事な日にはそれを屠殺して食べて過ごしています。
 日本だったらスーパーで、牛乳も卵も肉も季節に関係なく供給され、いつでも手に入るのがあたりまえに感じていました。動物に発情期があったり、授乳期があること、生き物であることを感覚的に忘れがちで、私も恥ずかしながら、仕事を始める数年前まで乳牛は1年中お乳を出すとか鶏は1年中定期的に卵を産むなんて信じていたものです。
 昨年の狂牛病騒ぎの起きる前に日本を離れたので、何ヵ月も遅れた新聞ダイジェストでたまにその後の対応や輸入食品の安全性などについて、どれだけ当事者らが苦労し、消費者が不安を持っているかは想像することも到底及びませんがいくつか腑に落ちないものを感じました。
 おそらく狂牛病対策に関しては安全性への信頼を高めるために、まるで工業製品のような管理や登録などが進んでいるのでしょう。しかしどれだけ管理しても、効率よい飼育のために畜舎で管理された環境下で育てられる動物たちの中に病気が生まれてくるというのは宿命であり、いたちごっこにも思えるのです。口蹄疫、狂牛病、サルモネラetc.。殺虫剤を撒きつづけた野菜は不味くなり、害虫も耐性を身に付けて行くのと同じように、家畜に巣食う病気もそのうち人間の手に負えなくなってしまうんじゃないか?と素朴な疑問を持たざるを得ません。
 もちろん周知のように現在の日本の生産現場では、効率よい畜産経営をしなければ、経営破たんをきたすほど農家の農業経営は厳しいものです。肉食が増え、膨大な消費人口を養うためには工業的な生産にならざるを得ないのは十分理解しているつもりです。しかしここで私が納得いかないのは「私作る人、僕食べる人」みたいな生産と消費の現場が益々離れていき、消費者は汗水たらさずに当然の権利として安全な食品を提供するように生産者に言い放つような、「金払ってるんだから、文句あっか」的な、そんな傲慢な印象を感じたのです。消費者は生産について目を光らせ生産者に安全な生産を要求するのももちろん大事だけれど、どれほど食べるってことに汗水たらしているんだろうか?命を持った動物を殺しそれを調理し食する感覚は、タンパク源として工業的に生産され、綺麗にカットされた肉片、大きさの揃えられたパックの卵を口に運ぶという感覚とはまったく違うはず。生き物が生き物を食べて生を繋いでいくという感覚が欠如し、ややもすれば食べるための動物を日常の場で殺すことすら残酷、などと言いかねない日本の食の現場で、食の安全性うんぬんの前に生き物を生き物として育て、感謝しつつおいしく食べるっていう当たり前のことができない事のほうが根の深い問題を作っているんじゃないだろうか。食べるということに一生懸命になって、苦労して食べる、食べる技術を磨く、そのうえで消費者の権利が主張できるんじゃないか?自分は供給される側だけにいて、涼しい場所で汗ひとつかかず、消費する権利を主張することが生産者にもその家畜に対してもおこがましく、恥ずかしい行いように感じないものなのかなあ、と日本から遠く離れた場所で素朴にポツリと思った次第です。
 でもこれは鶏を食べるために殺したことはあるけれど、自発的にやったわけでも飼っていた鶏をつぶしたわけでもなかった私が偉そうに言えるセリフではありません。将来、サラリーマンのかたわら鶏を飼い、来客があるときには鶏小屋に行き、産卵率の落ちてきた鶏をむんずとつかんで「なんまいだー」と念仏となえつつ首を落として羽をむしり解体して鳥鍋を作り、それを来客と一緒に美味しく食べられるようになるのが、目下の私の10年計画の夢です。生産と消費における両面の苦労と喜びが感じられるようになって初めて、一通りのものが言えるようになるんではないか…。四季っていうものを食べるだけの視点でなく、種をまく時期、収穫の時期、両面から感じられるようになったら、自然の恵みや命というものにもっと謙虚になれるんじゃないだろうか…。
 そんな日がくる事を祈りつつチリ生活残り9ヵ月、頭ではなく五感で色んなことを感じとっていきたいと思っています。

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