北海道新規就農者の農楽だより
世の中、何かがおかしいんだけれど…
藤田京子

 日本でBSE(狂牛病)の牛が発見されてから1年が過ぎた。この間、酪農・畜産農家が受けた影響は多大なものだっただろうが、BSE問題の余波は、ここ富良野の畑作物にも及んだ。富良野は玉葱の産地だが、玉葱は、例えば牛丼や肉じゃがのように牛肉といっしょに料理されることが多いことから、昨年は玉葱の需要が大きく低下し、豊作だったことも相まって玉葱の価格が大きく落ち込んでしまったという。
 そして影響は今年も続いている。昨年の価格暴落のような事態を招かぬよう、あらかじめ玉葱の流通量を減らすという「対策」が講じられ、9月も半ばになって全ての玉葱生産者に玉葱の収量の5%を廃棄せよ、との通達が農協から届いた。廃棄については農協から担当者が各戸を確認にまわるという。我が家でも玉葱を作付けしているが、契約栽培で出荷先が決まっているため、このような流通量の調整には直接は関係がないはず。しかし農協を経由して出荷先に流れているという現状から、契約出荷している無農薬栽培農家だけこの対策の適用外というわけにはいかないそうで、同じように5%の廃棄通達が届いた。
 せっかく苦労して作った作物を捨てる? 栽培に費やした労力を思っても、食べ物を捨てるという無駄を考えても、何ともやりきれない。通達を最初に聞いた時、「廃棄なんて断固拒否!」という言葉が思わず口から出た。だけど、農協や地域との関係上、従わざるを得ない状況となってしまった。怒りのやり場がない。
 ところが、周囲の農家の反応を見ていると、意外なことにさほどの怒りを感じていないようで、むしろ仕方がないといった風潮なのである。廃棄という形の価格調整が珍しいことではなくなっているからだろうか。ある種のあきらめのような空気を感じてしまう。
 似たような印象を持ったことはかぼちゃの出荷の時にもあった。出荷時期が近づくと農協が出荷規格検討会を開催する。この検討会に出かけたつれあいが、「俺は虚しくなった」と言って帰ってきた。検討会では、かぼちゃの見本をみせながら、「これは秀品・優品(ランク)」、「これは規格外(つまり出荷できない)」と担当者が説明するのだが、例えばかぼちゃに付いてしまったつるの跡はタバコ1本くらいの長さまではOK、2本以上あれば規格外、お尻のいわゆる「でべそ」は以前は500円玉以上の大きさのものはだめだったが、今年は大きさではなく飛び出しているものが規格外、皮にできるかさぶた状の「がんべ」は表皮の1割程度まで、等々。担当者の説明に、参加者は担当者の周囲に群がってサンプルのかぼちゃを眺めている。
 つるの跡は1本なら売り物になっても2本ならダメって、どうして? 同じ食べ物なのに? そんな線引き、誰が決めるの?、という思いが走る。そこでは作物の「見た目」が全てであって、作る人の姿勢や努力などは全く評価されない。それがとても虚しい。と同時に、怒りや疑問もなく、サンプルのかぼちゃに群がっている生産者の姿もまた虚しかったとつれあいは言っていた。いちいち怒ったり疑問を感じていたらやっていられないのかもしれない。
 かく言う我が家だって、なんだかんだと言って結局出荷時には、規格には従わざるを得ないのが現実だ。それに、怒りや疑問の気持ちだって薄れつつあるのかもしれない。いんげんの調整作業を手伝ってくれた、東京から遊びに来ていたつれあいの母が、曲がったり大きすぎたりして規格外のいんげんを「もったいない」と言って一生懸命もいで集めていた。私とつれあいは作業の効率をあげるために、どうせ出荷できないいんげんは始めからもぎ取らない。自家消費するには規格外のものはあまりに多すぎて、鶏の餌か堆肥になるかだ。でも、食べられるものなんだから、本来はもったいないと大切に食べるのが当たり前のはずなのだ。もったいないと思いつつも、食べられるものを食べ物にしないことに慣れつつあることを感じてしまった。
 調整・出荷作業の時にはいつもいつも感じる食べ物を無駄にすることへの罪悪感と虚しさ。「ねもはも」でも時々、他の方も書いていらっしゃるのを目にするし、ほとんどの農家が本当は感じていることのはず。一体どうすればいいのだろう。世の中、何かがおかしい。こんなこと、絶対おかしい。でもそんなことを原稿の中で吠えてみながらも、現実には規格に従いながら調整作業は続いているのであった。

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