●ごはんのおかず、なにがある? 「常備菜」というコトバがある。常に備えておくおかず。 冷蔵庫や水屋に何かしら入っている、長持ちする飯のおかずのことである。 それは漬け物であったり佃煮であったり、練り味噌のようなものだったりするだろう(前日のコロッケやカレーを温め直して翌朝食べるのは、常備菜とは言わない)。 ちょっと前の日本の食卓には、ごはんの時にかならず2〜3品は出ていた食べ物だ。 昨今、常備菜は食卓や冷蔵庫から駆逐されつつある。 おかずは毎回食べきり。買い物も、その日に使う分やせいぜい翌日の朝食分ぐらいまでしかせず、調理したものを何回も食卓に出さない。 それは、衛生的には正しいことなのだろう。 大概、常備菜と呼ばれるものは塩気がきつかったり、水分が少なかったり、和製スパイス的なもの…山椒や唐辛子など…を使って煮染め、炒りつけたようなものが多い。 少なくとも数日は保たせるために、傷みにくい知恵を施してあるのだ。台所という世界で使われる食の魔法だ。 この魔法を、食品メーカーが手間とカネを惜しんで再現しようとすると、なんだかへんてこな薬を使うはめになる。 そう、常備菜作りは、はっきり言ってめんどくさいのだ。時間をかけて煮込んだり炒りつけたり干したり漬けたり。 鉄火味噌など、材料が夏のものが多いので、酷暑の台所で汗みずくになってこんろに取り組むことになる。刻んで刻んで、ほぐしてほぐして、煎って煎って炒めて煮詰めて。隠し味はしたたる汗だ。 電子レンジでチン、フードプロサッサーでゴーというわけには、なかなかいかないのである(それらで少し手間を軽減することはできるが)。 ●代え難いおかず しかし、それを押しても、常備菜には代え難い魅力がある。子どもの頃には、大して楽しいおかずではなかった食べ物だが、長じると無性に恋しいことがあるやつらなのだ。 たとえば佃煮。白粥にこの子がちょこんと可憐に舞い降りると、じわっと甘醤油がグラデーションにひろがって、えもいわれぬうれしみがたちのぼる。 たとえば鉄火味噌。これを芯にして握ったおむすびは、すぐに食べてはいかん。少なくとも一時間は置いていただきたい。 そのまま食べるとしょっぱいこやつを、白飯にぎゅっと閉じ込める。彼はじわじわナワバリを周囲の米粒に浸透させてゆく。 だしと香味野菜の香りがうまいぐあいに扇を広げたところでがぶりと食いつくと、涙がこぼれるうまさだ。 たとえばしば漬け。残った麦飯にちょんぼりのっけて、熱いお茶をしびしびとかけまわす。胸がきゅんとなる桃色のお茶漬け。この漬け物は、他の何物にも代え難い。 ●めしさえ炊けば 常備菜の本来のメリットは、「とにかくめしさえ炊けば、何かしらのおかずで一食食える利便性」であろう。 ごはんを炊く。炊ける間に汁のひとつもできよう。魚や肉を焼いてもいい。 それに、冷蔵庫と水屋からごそごそ取り出してきた漬け物に佃煮、煎り味噌あたりを並べれば、一汁三菜どころではないごちそうのできあがりである。 しば漬けがなくなりかけた頃に、たくあんを仲間に入れる。煮味噌が尽きてきたら鉄火味噌がどんと載る。小魚の佃煮に別れを告げる前に、かつおの角煮をお迎えする。 かつての日本の食卓とは、こうして様々なおかずが行きては去り、また送っては迎え、とバトンタッチを繰り返してゆくものではなかったろうか。 ちなみに、わが家の現在の常備菜は、鉄火味噌、しば漬け、キムチ、ちりめんわかめである。 もうすぐしば漬けがなくなる。さよならしば漬け、こんにちはぬか漬け。 地味な常備菜どもは、主菜…たとえば豚肉のしょうが焼きだったりコロッケだったりするスターと比べると、うっかり八兵衛にもかなわないほど地味な役者かもしれないが、なくなってしまうとなると無性に惜しく、最後の方はちびちびと名残を惜しんだりするものだ。 こうした愛くるしい常備菜を、私は愛するものである。 |