はるの魂 丸目はるのSF論評


デューン 砂漠の異端者
HERETICS OF DUNE

フランク・ハーバート
1984



 1985年、冬。前作「砂丘の神皇帝」が出てから1年後に、デューンシリーズ6編目となる「砂漠の異端者」が翻訳された。レト神皇帝が崩御してから1500年が過ぎた。デューン「砂の惑星」から約5000年の歳月が流れた。既知宇宙の人々は、暴君レトのくびきが取れたかのように広く未知の宇宙を開拓する大離散と、社会的混乱による大飢饉の時代を経ていた。砂の惑星アラキスは、ラキスと呼ばれ、かつてハルコンネン家の惑星であったジェディ・プライムはガムーと呼ばれていた。
 協会(ギルド)、ベネ・ゲゼリット、トライラックス、イックスは健在であり、既知宇宙にはさらに新たな勢力が進出し始めていた。それが、「誇りある女たち」である。彼女らは、大離散から戻ってきた勢力のひとつで、ベネ・ゲゼリットとトライラックスの技術を併せ持つような勢力であった。ラキスの香料メランジを凌駕するトライラックスの人工メランジの存在と、誇りある女たちへの恐怖が、ベネ・ゲゼリットとトライラックスを近づける結果となる。
 一方、ラキスは再び砂の惑星へと戻り、暴君レトのかけらを内包した砂虫がかつてのように砂の海に生きていた。そこに、ひとりの少女が現れる。砂虫とのコミュニケーションを図ることができる娘シーアナである。それはラキスの僧侶たちにより、また、ベネ・ゲゼリットによって予言されていた娘。神の復活の兆しとなる娘であった。
 一方、ベネ・ゲゼリットは暴君レトと同様に、トライラックスよりダンカン・アイダホのゴーラ(クローン)を買い入れ、彼を育てていた。ダンカン・アイダホのゴーラがかつての自らの精神と記憶を取り戻すには、先代レト侯爵とのある会話と緊張状態が必要となる。ベネ・ゲゼリットは、アトレイデの血筋をしっかりと取り入れ、そのための人材までも育てていた。
 暴君レトとベネ・ゲゼリットによって多くの人々の身体、精神能力は5000年前の人たちが想像しないほどに向上し、一部は超人と呼べるほどになっていた。ダンカン・アイダホをめざめさせ、シーアナとつがわせることこそが、ベネ・ゲゼリットの復興の次の目標となっていた。
 そこに立ちはだかる誇りある女たち、さらには、同盟者でもあるトライラックスとの緊張。
 これまでとは異なる物語が、5000年の歴史を背景に今はじまる。

 ということで、前作「砂漠の神皇帝」に続き翻訳され、買って読んだのだが「ふーん、これ誰だっけ? 何が起きていたんだっけ」といった感じで大河ドラマの前を思い出せずに、ダンカン・アイダホの苦悩がよく分からず、出てくる登場人物の位置づけも見えず、放りだした記憶がある。そのためか、自作であり、フランク・ハーバートの最後のデューンシリーズとなった「砂丘の大聖堂」を買うことはなかった。「砂丘の大聖堂」が出た頃は、すでに社会人になっていて、日々ものすごく忙しく、たまに本屋に行っても、その日の気持ち次第でSFを買わずにいることもあった。「砂丘の大聖堂」を見かけたのは、当時広島のバスセンターに併設していたそごうか、バスセンターの中にあった紀伊国屋で、手にとってあらすじを読み、「ま、いいか、前のを読み返さないと分からないし」とそっと戻したのを覚えている。後悔。大後悔。今となってはどうしようもない。
 さらに、「砂丘の大聖堂」後、フランク・ハーバートは亡くなり、息子のブライアンが、今、この続編を書いたそうであるが、日本で翻訳される見込みはない。デューンシリーズを訳していた矢野徹も亡くなり、このまま日本では「デューン」が再評価される日はこないのであろうか。
 もったいない。今読んでもおもしろいのに。
 5000年だよ! しかも、デューンの宇宙史には、書かれていない1万年以上の人類の歴史があるというのに。あああ、誰でもいいからブライアンの続編を訳して。そして、デューンシリーズを一度全部再版して、ね、早川書房様。
 SF滅亡の危機だけど、こういう作品は残していってもらいたいものである。

(2009.08.09)

TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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