はるの魂 丸目はるのSF論評


いたずらの問題
THE MAN WHO JAPED

フィリップ・K・ディック
1956


 ディック3作目は、1956年発表の「いたずらの問題」。1992年に創元SF文庫より大森望氏による翻訳として登場。名作である。この時分、サンリオSF文庫の再刊や新訳が創元、ハヤカワによってなされていた。いい時代である。

 この未来。
 1972年に終戦が終わる。
 1985年革命が道徳再生運動の創始者ストレイター大佐によって起こり、世界がモレク(道徳再生)の世界と化していく。
 1990年、ストレイター大佐のモニュメントの型ができる。
 2085年、革命後100年に主人公アレン・パーセルが生まれる。
 そして、舞台は2114年。アレン・パーセル29歳。地球。モレクの社会で、アレン・パーセルは妻とともにベッドを広げたらそれだけで一杯になる狭い部屋に暮らしていた。職業、新興調査代理店の創業者社長。彼が暮らす部屋は、彼の両親らが積み重ねてきた地位の結果として得たものであり、この道徳的な世界では高い地位を占める証でもあった。朝になればベッドは消えて、キッチンが自動的に壁からあらわれる。最小の空間、最小の生活。機能性と道徳的行動だけが求められる社会。広告も、看板もない。
 調査代理店は、パケットと呼ばれるモレク企画をテレメディア局に提出し採用してもらう会社である。新たな道徳的価値を映像やコピー、イベントとして社会に導入することを生業にしていた。アレン・パーセルは、その中でも最後発であり、大手とは違って自らのアイディア=新しいモレクの新しい形での提案を強みにしていた。それこそが、アレンの持つ「特殊能力」でもあったのだ。
 しかし、アレンには悩みがあった。ある日、気がつけば、ストレイター大佐の歴史的モニュメントに赤いペンキと電動ノコギリのようなものを使っていたずらをしかけていたらしいのである。なぜ、自分はそのようなことを行ったのか? 自分自身に自信を持てなくなっていくアレン。まして、そのことがばれれば、非道徳的存在として彼の親から積み上げてきた今の地位をすべて失うことになる。
 一方で、アレンには、新たな社会的地位が政府機関より提示される。
 これを受けるべきか? しかし、自分の精神には不安がある。
 彼は、この社会に暮らせず、外の植民星に向かうような人たちに向けて開業している精神医のもとを訪ねることにした。そして、そこでアレン…。

 本書「いたずらの問題」は、初期の作品の中でも、もっとも分かりやすい筋立てかもしれない。そして、もっともディックの理想的な人間像がはっきり出ている作品かも知れない。ディックは、このアレン・パーセルのような人物でありたかったのではなかろうか?
 トラブルもない代わりに楽しみもない、人々への配慮が行き届く代わりに生き生きとした活動もない、そんな道徳的社会。この社会に適応できなければ、地球を離れて植民星に行けばいい。そこには、道徳にしばられない「自由」な世界が待っている。しかし、道徳的生活は望めない。道徳的世界はつまらない。何かが足りない。なんだろう。
 そう、アレン・パーセルのような存在である。「いたずらの問題」なのだ。
 ディックは喝破する。
「いたずら」、つまりは、社会的な価値観とのずれの表出は、ユーモアを生む。いや、ユーモアを持つものこそがいたずらを演出することができる。
 トリックスターの存在。
 それが道徳的な社会に欠けた存在である。
 トリックスターでありたい。
 強い意志を持ち、人間くさく、他人と自分のことを考えることができ、それでいて社会に対しては大胆なトリックスターでありたい。
 それが、ディックなのではなかろうか。
 晩年(50代だったが)のディックは宗教的な物言いに転じていくが、この初期の作品群を読むと、ディックの小説家としての視点のおもしろさがよく見えてくる。
 ディックの作品群の中で、「いたずらの問題」は素直でストレートな作品である。
 名作だと思う。
 ま、大森望訳も読みやすさの理由のひとつなのだけれど。


(2007.03.08)



TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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