はるの魂 丸目はるのSF論評


悠久の銀河帝国
BEYOND THE FALL OF NIGHT

アーサー・C・クラーク & グレゴリイ・ベンフォード
1990


 アーサー・C・クラークの処女長編「銀河帝国の崩壊(AGAINST THE FALL OF NIGHT)」の「続編」をグレゴリイ・ベンフォードが共著という形で発表したのが本書「悠久の銀河帝国」である。「銀河帝国の崩壊」は、その後、アーサー・C・クラーク自身の手によって「都市と星」として生まれ変わった作品であるが、名作として名高い「都市と星」以降も「銀河帝国の崩壊」は売れ続けた。そして、「続編王」ベンフォードがクラークを口説き落とし、この処女作「銀河帝国の崩壊」の続編が発表されるに至ったのだ。本書は、前半が「銀河帝国の崩壊」そのもので、後半がベンフォードによる「続編」部分である。
 前半の「銀河帝国の崩壊」については、すでに再読しているが、今回ももちろん読み直した。奇しくも2年前の1月頭に読んでおり、2年ぶりの再読であるが、ざる頭の私は翻訳者が違うこともあり新鮮な気持ちで読むことができた。
 そうして気持ちをクラークの世界に入れておいての続編である。
 遠い遠い未来、変わり果てた人類、変わり果てた宇宙。人類を中心とした未来の知性たちが黒い太陽に狂った頭脳を閉じこめていたのだが、アルヴィンが警告を無視して宇宙に飛び立ったことが影響して、狂った頭脳がいましめを解き放ち、再びこの宇宙に還ってきた。地球というほろびゆく星に自ら閉じこもり、永遠の生命を細々とつないできた人類に反して、宇宙は生命に満ちていた。アルヴィンの手によって復活させられた旧人類の女性クレイと、やはりアルヴィンの手によって復活させられたもののアルヴィンには計り知れない世界を知るアライグマ型の知性動物シーカーが、狂った頭脳による未曾有の生命の危機の鍵を握る存在として命をかけた戦いに赴くのであった。
 地球にはびこる不思議な生き物たち、様々な知性体、半知性体、宇宙空間に満ちた不思議な生き物たち。動物、植物、移動能力を持った植物、菌類、電磁的な生命、壮大な生態系を持つ群体的生命…これでもか、これでもか、とベンフォードが自由に筆を走らせている。
 重力のくびきを逃れ、空間的な制約のくびきを逃れた生命が、どのような発展をとげることができたのか、さあ、あなたも、遠い、遠い、人類中心主義とはほど遠い世界に足を運んでみてはいかが。

 と、ここからは深いネタバレを含む話になるので注意。






























 アイザック・アジモフがファウンデーションシリーズで、究極の知性体として「ガイア」的なものを示したが、ベンフォードも、本書「悠久の銀河帝国」において、「ガイア」的な統合的知的生命体による宇宙の姿を示す。これは、80年代後半からのSFのひとつの特徴である。カール・セーガンによる「コスモス」おける核の冬仮説や、ジェームズ・ラヴロックによる「地球生命圏」のガイア仮説、あるいはそれ以外の地球規模の環境変動や生態系の関係性への理解によって世界や生命への視点が変わり、このようなSFがしきりと書かれるようになった。
 90年代後半以降は、地球環境問題が現実の政治・経済・科学における重要な課題となり、SFでは一定の位置づけを残しながら情報の集積と知性の位置づけに関心が寄せられるようになった。エコロジーSFは、「うんざり」されるようになったのである。
 本書もまたそんな80年代末に書かれた作品ではあるが、そこに展開される具体的で不思議な魅力あふれる生命たちの活写が、エコロジーSFとは一線を画したものとなっている。
 考えてみれば、クラークの「銀河委帝国の崩壊」は「都市と星」よりも率直に人類のあり方に対して哲学的な視点をみせた作品であった。ベンフォードは、その「人類のあり方」を「生命のあり方」にまで拡張し、思考実験をした。それこそが、クラークが続編として望み、認めた理由ではなかろうか。


(2007.1.15)



TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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