はるの魂 丸目はるのSF論評


この人を見よ
BEHOLD THE MAN

マイクル・ムアコック
1968


 1940年に男は生まれ、1970年に男はタイムマシンに乗って紀元28年にたどり着いた。男の名はカール・グロガウアー。幼い頃に父と別れ、母とともにロンドンで暮らしていた。カールは、いつも「自我」に悩まされていた。自分と他人との関係、自分と世界との関係、自分と自分との関係。自分を見つけることは、なにか深く暗い穴を見つめることだったのかも知れない。他人と関係することで、自分がその相手によって変わることにとまどいを覚え、自分とは何かについて悩み続けていた。男は、精神医になりそこね、ユングの研究に希望を持っていた。男は、十字架に異常な執着を覚えていた。キリストが磔とされた十字架。だから、彼は、それほど深く考えずに、紀元29年のキリストの磔刑を見ようと、すすんでタイムマシンの試作品に乗り込んだのだった。そして、1年前の紀元28年にたどりつく。タイムマシンは壊れ、二度と帰れない未来が1940年分待ちかまえる。

 もし、現代にイエス・キリストが生を受けたら、彼はどのように育ち、どのように生きるのだろうか? 彼は、たとえ彼が神の子であるとしても、現代の預言者であることができるだろうか?
 本書「この人を見よ」では、1945年に神が死んだと、神の子としての啓示を受ける男が心の内で叫ぶ。
 1945年、原爆が投下され、大きな戦争が終わった年である。
 ところが、神はどうやら生きていたらしい。
 21世紀を迎え、世界は神の名の下に人が行う争いに満ちている。つきつめれば、同じ神を信仰しているにもかかわらず、その信仰のしかたが気に入らないのか、相手を憎み、殺し、憎み、殺している。
 私には、神のことはわからない。神が生きているか、死んでいるかも分からない。
 しかし、この国でさえも、いまをもって「現人神」が「人間」としてたたえられているのである。そして、それへの傾倒は以前よりも高まっている。公然と、「人間」を「神」とたたえる者が増えている。
 もし、現代に、神の使いが生を受けたら、彼ないし彼女は、あるいは「それ」は、どのように育ち、生きるのだろうか。神の使いとして受け入れられるのだろうか。現代において、神の代弁者として生き、死に、そして、新たな聖なる書が生まれるのだろうか。
 21世紀と言っても、いまも、2千年前と変わらないのだろうか?

 本書「この人を見よ」は、SFとしてはシンプルな作品である。現代人(といっても1970年に30歳を迎える男であるが)が、イエス・キリストの生きた時代に飛び、歴史の中に埋もれていく物語である。
 ムアコックは、死んだはずの「神」を殺したのでも、キリスト教を冒涜したのでもないだろう。現代人という精神のありようについて、イエス・キリストの時代に焦点を当てることで、逆に描き出そうとしているのであろう。この作品が書かれてからまもなく40年になろうとしている。はたして、ムアコックが描こうとした現代社会の病理は治癒したのだろうか、深まったのだろうか? 政治に再び神の名が介在している現在、本書「この人を見よ」を読む価値はある。

 といっても、本書「この人を見よ」を再読しようと思ったのは、「アークエンジェル・プロトコル」を読んで、ちょっと呆然としてしまったからであった。あちらは、とても現代的なSFの衣をかぶったファンタジーで、こちらは、古色蒼然としたSFの衣をかぶった王道のSFである。宗教をモチーフにしたSFは数知れないが、三大宗教、とりわけキリスト教をモチーフにしたものならば、私は王道が好きだ。神に出てこられてもねえ、困っちゃうから。

(2006.11.6)




TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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