はるの魂 丸目はるのSF論評


ファウンデーションへの序曲
PRELUDE TO FAUNDATION

アイザック・アシモフ
1988


どんな偉人にも、年寄りにも、子どもの頃、あるいは若い頃というのがある。たとえばその人が年をとってから有名になり、その姿だけを長く見ていると、あたかもその人の若い頃なんてないような、その人はずっと同じ姿をしているかのような気になってしまう。
 だから、父母や祖父母の若い頃の写真を見たり、彼らの若い頃の文章を読む機会があると、ちょっととまどい、気恥ずかしいような気持ちにさえなってしまうことがある。
 もし、その人が不老不死だったら、逆にびっくりしてしまうだろう。
 10年前も、20年前も、30年前も、ひょっとすると100年前も同じ顔姿だったりするのだ。

 本書は「ファウンデーションへの序曲」は、ファウンデーション・シリーズの6作品目であり、タイトル通りに銀河帝国の興亡初期3部作より以前を描く作品である。
 ハリ・セルダンは32歳。学会のためトランターにやってきたばかりの「若者」であり、数学的仮説としての「心理歴史学」を提示してしまったために、皇帝を含むいくつかの権力者の注目を集めてしまった。
 折しも時の皇帝は、セルダンと同じ32歳のクレオン一世。先帝に引き続き、影のように帝国を支えるエトー・デマーゼルによって、数学的ゲームであり、仮説であり、成立するはずがないとセルダンが確信する心理歴史学は、権力の道具になってしまうのか? そして、すべての読者がすでに知っているとおりの歴史をたどるとすれば、一体いつ、ハリ・セルダンは心理歴史学を架空のものでなく、実現するのか。それが可能だと彼は一体いつ確信し、いつ、どこで生み出すのか?
 さらには、前作「ファウンデーションと地球」で登場したR・ダニール・オリヴォーは、一体いつからハリ・セルダンに目を付けていたのか? 心理歴史学とダニール・オリヴォーの関係はどんなものがあるのか?

 いかにもアシモフ的なハリ・セルダンである。ハリ・セルダンは、アシモフのひとつの理想像なのではなかろうか。もうひとつの理想像は、イライジャ・ベイリか。いずれにしても、アシモフは「追求する人」が好きなのである。何にでも首を突っ込む、人類の行く末を真剣に考えつつも、目の前の人にすっかり感情移入したり、感傷的になったりする。
 まさしく、人間である。
 アシモフのロボットも人間くさいが、アシモフに出てくる人間は、まさしくアシモフ的人間である。
 そして、それゆえに、教えたがる。自分で調べて、できれば考えて欲しくて、教える。手を変え品を変えて、教えようとする。アシモフだから。
 本書を発表した1988年、アシモフは68歳である。
 それでもなお、アシモフは、「ファウンデーションをロボットシリーズと統合して、アシモフの宇宙を開拓する」ことに全力を注いだ。遠い未来の中の過去へ、また、未来へ、また過去へ。時を自由にかけ、20世紀後半を自在に駆けめぐり、若き日のハリ・セルダンを通して、銀河帝国末期の姿を描き、同時に80年代後半の世界を描いたのだった。

 そこでは、未来であるファウンデーションのハリ・セルダンの姿はない。
 没落していく世界で、遠い未来の希望を切り開こうとする生き生きとした人間の姿がある。また、没落していく世界であっても、トランターという惑星にいる多種多様な人々の生き方がある。
 50年代のファウンデーションに書かれたトランターとはなんという違いだろう。
 作品もまた、その時代から離れることはできないのだ。
 人は年をとる。年齢ごとに経験を重ね、覚え、忘れ、恥ずかしがり、厚顔にもなる。
 そのすべてが、人の歴史になる。
 私は、意外と、この前・ファウンデーションシリーズが好きなのだ。
 安心して読めるからかな。


(2006.04.08)





TEXT:丸目はる
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