はるの魂 丸目はるのSF論評


ソラリスの陽のもとに
SOLARIS

スタニスワフ・レム
1961


 スタニスワフ・レムの異質知的生命遭遇三部作「エデン」「ソラリス」「砂漠の惑星」のなかでももっとも知られ、読み続けられているのが本書「ソラリスの陽のもとに」である。ロシア人の映画監督アンドレイ・タルコスフスキーを西洋世界に広く知らしめたのも、本書を下敷きにしたSF映画「惑星ソラリス」(1972)であった。
 レムはポーランドの作家であり、ポーランドは過去数百年にわたって国家を喪失し、分裂し、支配され、奪われ、争い、弾圧され、現在にいたる国である。ヨーロッパと世界の歴史に翻弄され続けた国であり、レムが活躍し、本書「ソラリスの陽のもとに」が書かれた時期はソヴィエトの指導下にあった東欧諸国のひとつである。

 まず、はじめに、映画「惑星ソラリス」とタルコフスキーについて触れておきたい。
 本書「ソラリスの陽のもとに」は、ロシア語に訳され、おそらくそれがロシアに住むロシア人のアンドレイ・タルコスフスキーの目にとまったのであろう。1972年に「惑星ソラリス」を公開し、世界的なヒット作となった。その後、タルコフスキーは「鏡」を経て、A&B・ストルガツキーのSF「ストーカー」を題材に「ストーカー」をつくり、「ノスタルジア」でソ連、イタリア、フランスの合作、その後亡命し「サクリファイス」を作成、そして死去した。タルコフスキーは、ソヴィエトのロシア人でありながら、その内にいたときから常に「疎外」「喪失」をテーマにし続けていた。
 この映画と原作であるレムの小説との間に、深い関連はない。なぜならば、タルコフスキーは独自の解釈としてこの映画をつくったのであり、それはレムが思う「ソラリス」ではなく、SFと言えるものでもなかった。また、タルコフスキー自身がこの映画を失敗作とみなしているようである。
 それでも、この映画の映像は美しく、また、ソラリスを幻想的に見せ、映画中で使われているバッハのBWV639「我汝に呼ばわる、主キリストよ」とあいまって深い印象を与えている。
 タルコフスキー自身の解釈や解説がいかなるものであれ、タルコフスキー自身の生涯とその後の映画作品を見れば、「惑星ソラリス」の中にも、「失われたもの」「伝わらないこと」への時空を超えた思いを感じとることができる。

 次に、冷戦時の小咄をひとつ。アメリカとソヴィエトの冷戦時、月のあとに宇宙開発をするならばアメリカは火星を目指し、ソヴィエトは金星を目指すだろうと言われた。その理由に、ロシア人には内側へ内側へと向かう指向性があり、そもそも移民社会のアメリカ人には外へ外へと向かう指向性があるからだとされた。また、ソヴィエトは北極から地球儀をみると「敵」に国の周辺すべてをとりまかれているが、アメリカは開かれている。さらには、ソヴィエトでは精神科学が発展し、アメリカでは物質科学が発展しているとも言われた。
 地政学や科学の発展の歴史をみるとそうかなと思うところもあるが、ステレオタイプな分類による小咄だと受け取っておこう。しかし、そういう小咄がまことしやかに語られるのが冷戦時代だったのだ。

 現在は西側諸国に位置づけられるポーランドであるが、冒頭述べたように、その歴史は蹂躙と弾圧と反発の歴史であった。そして、冷戦下、ソヴィエトの事実上の支配下にあり、国家そのものが鬱屈していた頃に三部作は書かれている。  レムは、SFに政治的意図はないとするし、事実、それを離れたところで、本書や他の作品はSFとして高く評価されるべきだ。
 しかし、それでも、たとえば、本書「ソラリスの陽のもとに」の訳者あとがきで翻訳者の飯田規和氏が、本書のロシア語訳にはめずらしくレム自身が内容の解説とも言える「前書き」をつけていると、その全文を紹介しており、「ロシア語」版の「前書き」に説明を加えるあたりにSFを超えた「意図」を感じざるを得ない。
 その一部を引用しよう。
“その「未知のもの」との出会いは、人間に対して、一連の認識的、哲学的、心理的、倫理的性格の問題を提起するに違いない。その問題を、暴力によって、たとえば、未知の惑星を爆破するというような方法によって解決しようとすることは無意味である。それは単位現象の破壊であって、その「未知のもの」を理解しようとする努力の集中ではない。「未知のもの」に遭遇した人間は、かならずや、それを理解することに全力を傾けるであろう。場合によっては、そのことにはすぐには成功しないかも知れないし、さらに、場合によっては、多くの辛苦、犠牲、誤解、ことによって、敗北さえも必要とするかも知れない。しかし、それはすでに別の問題である。”
 としている。さて、本書「ソラリスの陽のもとに」ではどうだったのだろうか。

 本書「ソラリスの陽のもとに」は、惑星ソラリスが発見されて百数十年後のソラリス・ステーションを舞台にする。惑星ソラリスは、二重太陽を回る惑星で、発見当初は注目されなかったが、その後、惑星が自立的に軌道を安定させていることが発見され、それを何が行っているのかに注目が集まった。惑星ソラリスは海がほとんどをしめており、その性質を調べるうちに惑星ソラリスの海こそが軌道を安定させている存在であり、おそらく知的生命体であり、人間以上の高度な知性を有していることが仮説として挙げられた。惑星ソラリスは、様々な「形」を海に生み出し、それは単なる物理現象とは言えないからだ。しかし、ソラリスの海との意思の疎通はまったくできず、仮説もつきはて、惑星ソラリスの海に反重力的に浮かぶソラリス・ステーションには3人のスタッフが常住して研究を続けるのみだった。いま、心理学専門のクリス・ケルビン博士が新規スタッフとして、ソラリス・ステーションに到着した。しかし、出てくるはずの他のスタッフの姿はなく、補助をするアンドロイドの姿もない。所長は自殺し、ひとりはまったく部屋から出てこず、唯一なんとか正気に近いと思われるスナウト博士の様子もおかしい。そして、3人しかいないはずのソラリス・ステーションには、黒人の女の影や子どもの影がある。スナウトはケルビンに「やがて君にも分かる」と言う。
 そして、分かるときがやってきた。かつてクリス・ケルビンが冷たくして自殺してしまった恋人のハリーが、そのときの姿のままに実体をもってあらわれたのだ。
 それは、ソラリスの海がケルビンの脳を読み取って生みだした存在だった。ハリーは決してクリス・ケルビンから離れない。かつての罪の意識と、目の前のハリーの存在に動揺し、恐怖し、渇望し、混乱するケルビン。やがて、ハリーは自意識さえも持ちはじめた…。

 本書の中で、レムはコミュニケーションと認識について語る。そして、それは、「疎外」と「喪失」の裏返しでもある。コミュニケーションが成立しなければ、それが対象のせいであれ、主体(わたし)のせいであれ、どちらのせいでなかろうと、主体であるわたしにとっては「疎外」となる。そして、「喪失」は「疎外」そのものであり、「喪失」を認識することで主体は「疎外」される。
 もっとも深い心の傷が「疎外」を生み出すのだ。ソラリスの海を介して、ケルビンがハリーを得るように。
 現代において「疎外」は深刻な問題となっている。多くの人が、コミュニケーションする機会をもちながらもコミュニケーションができず、失っていない「喪失」を認識し、たえず「疎外」された主体だと感じている。それは、主体(わたし)が覚える勝手な「疎外」であるが、「疎外」に真実も仮想もない。
 不幸な時代である。私は、異質な私たちに取り囲まれ、「疎外」されているのだ。
 それは、レムがもっとも恐れていたできごとではなかろうか。
 そして、タルコフスキーが未来に感じていたことではなかろうか。
 ゆえに、レムとタルコフスキーが表裏一体のテーマを解釈していたと私は理解している。

 もちろん、そう深読みする必要はないのかも知れない。
 この作品は、他の2作品と同様に、真に異質なものとの関係性について語られたSFとして読めばいいのかも知れない。しかし、深読みしたいような気持ちになるのが、レムの、そして、タルコフスキーの作品群なのだ。

おまけ
 漫画家で、現在は作品の再版さえ断り続けている内田善美が「星の時計のリドル」の物語の終盤で、主人公のロシア帝国時代の貴族の孫である流浪のロシア系アメリカ人に「内なるロシアの発見」を美しく描いている。彼女もまた、作品の中で、コミュニケーションと認識、そして、疎外と喪失を追求し続ける作家である。すでに稀少な本であるが、機会があればぜひ手にして欲しい作品である。

おまけ2
 スティーヴン・ソダーバーグ版映画「ソラリス」(2002)はまだみていない。それから、 国書刊行会から2004年11月に「ソラリス」として、ポーランド語版(オリジナル)からの翻訳が出されている。これは読んでみたい。


(2006.1.22)





TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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