はるの魂 丸目はるのSF論評


ディアスポラ

DIASPORA

グレッグ・イーガン
1997


 イーガンの小説は、書かれてから10年ほど経って読むと、ようやくついていけるようになる。そのくらい彼は現実の科学技術の最先端をSFとして解釈し、さらにその先をイメージしてみせる。しかも、そうでなくても読ませる力量を持っている。

 つい先日、フィリピンのマニラ空港で本書を読み始め、読み終わってしまった。12時間も空港にいて、ほかにすることもなかったのである。もちろん、それは航空会社の責任でなく、私がたまたま空港で時間待ちをするほかなくなったからだ。フィリピンといえば、70年代は世界の最貧国である。今はマニラを中心に都市化が進んでいるが、農村部は電気、ガス、水道などのインフラがまったくないところも多い。人は歩き、水牛に乗り、戦時中のトラックを改造して使い続けている。それでも、彼らが望むと望まざるとに関わらず、世界は確実に彼らとつながっている。それは決して優しくなく、暴力的に彼らに変化を迫る。安い輸入野菜によって、彼らの限られた現金収入がなくなっていく。農村の電気もないところから人たちが集まり、WTOやGMO、あるいは京都議定書(KYOTO PROTOCOL)といった単語が飛び交っていた。
 世界はいやおうなくつながっている。

 本書「ディアスポラ」は、壮大な物語であり、同時にひとりの人のささやかな物語である。
 まるで「銀河帝国の崩壊」(A・C・クラーク)を思わせるような物語の導入部分は、生命と人工生命についての含蓄深い描写が続く。
 ヴァーチャルリアリティ社会で、ひとりの「孤児」が誕生する。
 その社会は、まったくの仮想空間社会であり、彼らは純粋な知的ソフトウェア群として人格を持つ人であり、その環境と社会はソフトウェア群によって構築されている。人々はそこで生まれ、育ち、ときには死んでいく。
 一方、地球という物質世界で生まれ、育ち、死んでいく者もいる。ある者たちは、自らの内側を変容させ、ある者は、あるものは姿形や存在のありようさえも変容させる。しかし、彼らもまた人であり、知的存在であった。
 さらに、広く宇宙という物質世界では、機械の身体を持った人に由来する知的存在がその存在の望む道を探して生きていた。
 やがてすべての存在を脅威にさらす宇宙的な出来事が起こる。
 生存の保証を求め、宇宙の真理を求めて、彼らは時と空間を超えた離散の旅に出る。
 仮想空間で流れる時間、実時間と物理世界が要求する時間の流れという物理的制約が、人々に物語をもたらす。

 宇宙の果てを描くSF作品は古今東西に限りなくある。本書「ディアスポラ」もまた、宇宙の究極の姿を描くひとつの名作として残るのではなかろうか。
 本書が発表された1997年の前後にも、ヴァーナー・ヴィンジが「遠き神々の炎」(1992)、「最果ての銀河星団」(1999)で宇宙の究極の姿を変わった形で描き出している。
 本書「ディアスポラ」は、宇宙のありよう、生命のありようを、できる限りにつきつめて我々の前に提示する。そこには、SF読みに許された静かな感動が横たわっている。この喜びについては、本書のあとがきで大森望氏がせつせつと書いているので、これ以上は書かない。
 そして、同時に、SF読みに対するきびしい挑戦でもある。人工知能、認識論、ヴァーチャルリアリティ、数学、宇宙論(量子力学)などの1997年当時の最先端がぎっしりとつめこまれ、平気な顔をして物語に登場してくる。きっと私は半分も本書の面白さが理解できなかったに違いない。それでも、どんなに高い山でも、その人の能力に応じて登る余地を残すのが、SFのいいところである。実際の科学であればとても手に負えず、仰ぎ見ることもできない頂上を、SFはどんな読み手にもかいま見せてくれる。それは、読み手の力量によってはっきりとしたり、ぼんやりとしてはいるが、あとはその人の知的好奇心次第である。もし、山の頂上をはっきり見たいのであれば、巻末に書かれた参考書の理解を目標にひたすら科学の世界に首を突っ込むしかない。それもまたSFのひとつの役割である。

 マニラ空港(ニノイ・アキノ国際空港)では、今、多くのアジア人が来て、そして、去っていく。フィリピン人、中国人、台湾人、韓国人、ベトナム人、マレーシア人、インドネシア人、タイ人…そして、日本人。各国の言葉が飛び交う。ちょっと前までは、行き交う多くの人たちは非アジア人種の人たちであったが、今はその姿はまばらである。その多くが携帯電話を持ち、ある者は、ラップトップパソコンを広げて仕事をしている。わずか10年でも世界は簡単に姿を変える。
 もし、今年の冬、懸念されている鳥インフルエンザの人感染性への変異と流行が起これば、この姿は一変するだろう。世界はふたたび閉ざされたものになるかも知れない。
 未来は不確定だが、不確定故に未来であり、そこにSFの存在する余地が常にある。
 どんなに世界が変わっても、知的好奇心があり、人々がその好奇心を満たそうと物事を体系化して考えるところに科学があり、そこから道具が生まれ、社会がそれによって影響を受ける。その逆もある。社会が変わり、必要とする道具が生まれ、そして、そのための知識の集積が起こり、流行の科学が生まれる。そのどちらの狭間にも、それを空想する人たちがおり、彼らの多くがSFに巡り会い、彼らの内あるものがSFという世界を切り開く。
 そして、SFと世界は絡み合いながら未来を紡ぐ。
 未来の多くの窓の一つを、グレッグ・イーガンは本書「ディアスポラ」を通して提示する。

(2005.10.31)





TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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