はるの魂 丸目はるのSF論評


ゲイトウエイ4 ヒーチー年代記

THE ANNALES OF THE HEECHEE

フレデリック・ポール
1987


 えええええ。
 ゲイトウエイ4。ゲイトウエイシリーズもいよいよ幕を閉じる。起承転結の結である。主人公ロビネット・ブロードヘッドは、機械貯蔵の知性として存在することに慣れ、その生活を楽しんでいるかと言えば、そんなことはなく、生身の頃のブロードヘッドと同様に、自分の罪悪感をすべてに拡張して、純粋なプログラムのアルバート・アインシュタインと終わりなき議論を続けるのであった。そして、宇宙の成り立ち、宇宙の謎について、アルバート・アインシュタインの仮説を聞き続ける。
 彼らは拡張された時間を持つ。生身のリアルタイムに比べれば、そのミリセコンド、ミリセコンドは十分に考え、行動を起こすに必要な時間となる。生身の存在との会話は長い時間の無駄であり、代理人格「ドッペル」にその役割を果たさせながら、また別のことをする。ドッペルを呼び戻すもよし、そのまま存在させるもよし、消すもよし。まあ、複数の自分がいると面倒なので、そのまま存在させることはない。
 ということで、仮想人格、機械知性、バーチャルリアリティ空間、拡張された人生といった、現代SFのひとつのジャンルがまるごと本書に込められる。

 もちろん、ヒーチーと人類にとっての「敵」は健在だ。宇宙のありようを変え、すべての物質的生命を破壊し続ける、純粋なエネルギー知性対である「敵」を前にして、ヒーチーと人類は手を携え、「敵」を監視し、「敵」がふたたび、出現するときに備えている。
 しかし、しかし。なんということだろう。
「敵」は、地球にいたのだ。ヒーチーと人間の子どもが、はからずも「敵」のスパイの役目を担ってしまった。
 どうやって「敵」は彼らをスパイに仕立てたのか? そもそも「敵」は何を考えているのか? 何を狙っているのか? ヒーチーと人類は敵にとっての「敵」なのか?

 本書のテーマは、仮想人格、機械知性の究極とは何か? ということである。
 知性は、生身と仮想人格では異なるのか? 生身の生を機械に移植した仮想人格と、人格があるようにプログラムされた機械知性は、本質的に違うのか? エネルギー生命体の「敵」と、仮想人格とは異なるのか?
 データとして、プログラムとして、存在することの意味とは?
 バーチャルリアリティをテーマにした作品は数多くあれど、その生の意味をつきつめた作品はそれほど多くない。
 そして、そこにフレデリック・ポールは神性を見る。
 ああ、神である。
 ついに、神である。
 もちろん、「敵」は神ではない。
 神がでちゃうとなあ。シリーズは終わるしかないよなあ。

 本シリーズは、書かれた当時での最新の宇宙論、ブラックホール理論などを楽しく、わかりやすく解説してくれる。シリーズの前半は、その舞台となったブラックホールについて多く語られ、後半は、宇宙の成り立ちや存在について、ひも宇宙論を使って教えてくれる。現在、ひも宇宙論では宇宙が11次元であろうとされているが、この当時には9次元と考えられていたので、9次元の宇宙論が語られるが、それでも宇宙論としてはとても参考になるので、一読の価値がある。
 宇宙論と仮想空間、仮想知性の出会いが、本書のSFとしてのおもしろさであり、それを、宇宙論やバーチャルリアリティなどについて興味や関心がなくても読ませてしまうところに、作者の力量がある。

 そして、いきついたところは、神性であった。
「神はサイコロを振らない」というのは、本物のアルバート・アインシュタインの言葉。
 本シリーズの2刊以降は、プログラム・アインシュタインとブロードヘッドの対話が中心を占めるが、本物のアインシュタイン同様に、このプログラム・アインシュタインもまた、本物のアインシュタインと同化するために「神」を追い続けていたのかも知れない。


(2005.2.27)



TEXT:丸目はる
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