はるの魂 丸目はるのSF論評


ヒーザーン

HEATHERN

ジャック・ウォマック
1990


 ジャック・ウォマックによる、シリーズ6部作の第3作で、日本ではジャック・ウォマックをはじめて紹介した作品。このあと、シリーズ第2作の「テラプレーン」が翻訳され、以後、両作品とも国内では絶版となっている。ヒーザーンが翻訳されたのが1992年で、この時点では6部作のあとの3作品は書かれていない。また、時系列では本書→未訳の第1作、「テラプレーン」という順番になる。それぞれの作品に共通して出てくる主人公や設定はあるが、単独の作品としても読むことができる。その後、翻訳されない事情は分からないが、非常に訳しにくい作品であることは間違いなく、若くして亡くなった翻訳者の黒丸尚氏の力量を持ってはじめて訳すことができたのだと思う。すでに、アメリカでは6作品とも出版され、現代アメリカの小説として高い評価を受けているという。そもそも、本書がSFのカテゴリーに入れられ、ハヤカワ文庫からSFとして出版されているのは、超能力者や時空移動などが設定の中にあること、また、もうひとつの未来を描いていることから来るもので、SFの文法とはずいぶんと趣を異にする。

 さて、ポストモダンである。私は1980年代に大学した。ポストモダンは、最先端のゴシップ。脱構築、メタ言語、人工知性に仮想現実、両義性等、明瞭なしの言葉使いで、思考は近代脱不良の過去。
 ポストモダンを、現実化するとこうなりますよ、という作品である。
 なるほどお、こうなるのか。

 さて、ヒーザーン(異教徒)である。
 今、私は、インドネシアのバリ島にいる。ひとりの同世代人について話をしたい。
 彼女は、幼いころから貧困の中、学校にも行かず、観光客相手の物売りをして働いた。出身の村には観光客は来ない。だから、離れた観光客の来る村まで行って、チケット、おみやげ物などを売っていた。もちろん、それで家族が暮らせるわけではないが、彼女の働きで小学校に行かせるまでになった。
 彼女は、14歳で嫁に行く。観光客の村に暮らす年上の若者であった。若い男は、今も昔も働かない。働いて、家を切り盛りし、金を稼ぎ、家の寺、地区の寺、村の寺、バリの寺のお祭りを、日々の祈り、日々のお供え、祭りのお供えを、作り、買い、捧げるのは女達の仕事である。働かない、暴力を働く夫の元で、彼女は働き、働いた。心臓を壊すまでに。
 ある日、観光客のひとりと出会う。心臓の負担で苦しんでいた彼女を見かねたのだ。
 彼女は英語が話せた。もちろん、独学である。観光客相手の応対で覚えていったのだ、バリ語、インドネシア語ももちろん話す。しかし、文盲である。文字はほとんど読めない。道具としての話し言葉だけである。
 その、アメリカ人観光客は、彼女の境遇に興味を持った。そして、バリに長期滞在を何度も繰り返す男でもあった。彼は、彼女と話し、彼女の家族とも話し合って、ひとつの提案をした。彼女の家族の敷地に、ゲストハウスを作りなさい。そのうちの一部屋は彼のものとして、彼が来たときには、家族として、食事を出し、掃除をし、バイクで案内をしなさい。彼が、ゲストハウスの建築費はすべて払おう。さらに、小さな店を借りるための最初の代金を出してあげよう。代わりに、彼が来たときの滞在は無料にしなさい。それが彼の提案だった。彼は、彼女の苦しみの一端を取り除こうとした。
 そして、彼女に、もうひとつの提案をした。すでに、彼女はバリ島の病院に行っていたが、とうてい治せるような状況ではなかった。そこで、彼は、彼女にアメリカまでの航空運賃を持ち、身元保証をしてくれた。アメリカの医師に見せるためである。そして、アメリカで半年間働きなさい。そうすれば、家族へもお金が送れるし、医療費も払えるようになるだろう。
 それが、彼のもうひとつの提案だった。
 彼女は、過去7年、年に3カ月から半年はアメリカに行き、病院で検査を受け、薬をもらい、そして、働いている。バリ島から送った衣類をフリーマーケットで売る、工事現場で肉体労働をする、お手伝いとして下働きをする。数年前、危篤状態に陥って、アメリカで心臓手術をした。幸い一命はとりとめた。今も、彼女は、バリ島でゲストハウスを切り盛りし、店で観光客に安い衣類を売り、子を育て、早くもできた孫を育て、家族を切り盛りし、アメリカに行っては病院通いと日雇い仕事を続けている。
 バリ・ヒンズー教徒である彼女にとって、いや、バリ・ヒンズー教徒にとって、生活の場を離れることは深刻な自体である。山と海との間に人の暮らす場があり、マンダラのように生活と神の場が入り組み、重層となり、時間も空間も、日々の行為から週、月、年、一生を通じて、生活と神との間に定められた行為を行うことが、命であり、人生であり、喜びであり、悲しみであり、豊かな人生なのだ。そして、女達がその中心軸にいる。なのに、年の半分を家族、土地、空気、水から離れて暮らすのだ。
 異教徒として。
 言葉も、半分しか通じない、半分しか読めない国で。
 彼女は、アメリカでも日々祈る。
 そして、食事は、コリアンマーケットやチャイナ、ベトナムマーケットで食べたり、食材を買ってきて作って食べる。
 安く、なじみのある食材があるからだ。
 異教徒同士が、異教徒の国ですれ違う。
 しかし、彼女には、確固たる信念がある。
 彼女の神は、彼女をすべてを見ている。
 言葉の違う、異教徒の地であっても。

 その話を、異教徒であり、言葉の通じない私が聞く。何年にも渡って、少しずつ聞いてきた。私の英語など、たかが知れており、そして、彼女の英語はとても聞き難いのだ。

 ヒーザーン。異教徒の語がアメリカ南部なまりになって聞こえる語。
 同じアメリカ人同士でも、異教徒は、すれ違うだけ。
 本当の救世主がいても、他の神を、他の信仰を、他の信念を持つ物にとっては、それは、トリックであり、見せ物であり、ちょっとした能力に過ぎない。
 暴力と支配が蔓延した20世紀末(1998年)の世界で、ポストモダン化した支配者達が繰り広げる、ささやかな物語である。
 その語り口に、思考に、驚愕し、異教徒が異教徒であることを知るのだ。

 2001年9月11日以降、本書に示唆されたもうひとつの未来は、私たちの未来と限りなく近づいていることに、決してそのものにはなれないが親近感と憧憬を持つ異教の地で、再読し、あたりを見回して気づくのであった。
 この、神の寵愛を受けているバリの人達でさえ、世界の暴力と経済を語るのだ。
 彼らの日々の暮らしが、それにより脅かされているために。


(2004.12.14)



TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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