はるの魂 丸目はるのSF論評


ゼノサイド

XENOCIDE

オースン・スコット・カード
1991


「エンダーのゲーム」「死者の代弁者」の続編が本書「ゼノサイド」。直接には、「死者の代弁者」の続編にあたる。前作で、エンダーは「死者の代弁者」として惑星ルジタニアに降り立ち、ペケニーノ(ピギー)と人類の対話をとりもつ。さらに、エンダーが3千年探し求めたバガーの定住地として、ルジタニアを選ぶ。惑星ルジタニアには、すべての生命体を変異させうるウイルス・デスコラーデがあり、人類社会は、惑星ルジタニアを完全に破壊すべく、かつてエンダーが使用して以来使われたことのない究極兵器を積んだ艦隊を発進させる。それは、30年以上かけて惑星ルジタニアに訪れるであろう。そして、エンダーの姉、ヴァレンタインもまた、この新たなゼノサイド(異類皆殺し)の危機に、惑星ルジタニアを目指した。

 ということで、前作から30年後の物語。
 惑星ルジタニアのキリスト教社会。窩巣女王と、ペケニーノの第3の生にいるヒューマンとの対話。中国文化の影響を受け「道」を求める人々の社会である惑星パスのハン・フェイツー(韓非子)、ハン・チンジャオ(李清照)、シー・ワンム(西王母)の神をめぐる対話。
 神とは何か? 宗教とは何か?
 ゼノサイドを目前にした人々が、その生と死と存在を賭けて対話し、模索する。
 それは、苦しみであり、苦しみに過ぎない。
 苦しめ、苦しめ、苦しめ。神の前で苦しめ。
 その先にこそ赦しがある…そうだ。
 惑星パスの神は完膚無きまでに否定され、それゆえに、新たな神が生まれる。
 それにしても、ゆるぎなきキリスト教の神よ。
 異教徒にはついていけない神である。
 ついていけないがゆえに異教徒でもあるのだが。

 もうひとつ、変わらないテーマがある。
 権力と人である。本書と、続編「エンダーの子どもたち」があまりに宗教くさく、かつ、それがキリスト教と道教や神道を語るがゆえに見逃しがちであるが、「エンダーのゲーム」以来変わらないのが、権力と人のありかた、暴力と人のありかたへの問いかけである。
 これを見逃すと、読む気が失せる。
 これがあるゆえに、読むのである。
 権力が人をゆるがし、人が権力をつくる。
 そのことへの問いかけがある。
 対話ができない相手は殺しますか?
 殺されるならば、殺しますか?

 さて、本書「ゼノサイド」で、カードは、「フィロト」を提示する。それは神ではない。存在でもない。外側にあり、この宇宙(内側)に入って形となり、生命となり、意志となるものである。生命と生命を絡み合わせ、つなげるものである。
 手塚治虫が「火の鳥」で提示したコスモゾーンそのものである。
 フィロトゆえに、アンシブルが成立し、生命が誕生し、知性が知性と対話する。
 即時移動もまた、すべての本質がフィロトであることを利用し、内側を記憶し、外側を経由して、もう一度内側に再構成させることで可能になった。
 フィロトは神の本質か? それはわからない。
 かすかに、「ハイペリオン」シリーズの「エンディミオンの覚醒」のにおいがする。
 そして、エンダーは、エンダーであるゆえに、3つの肉体を生み出してしまう。
「エンダーの子どもたち」に続く。


(2004.6.15)



TEXT:丸目はる
monita@inawara.com
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